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アシタノワダイ削除【ビートたけしのフライデー襲撃事件の真相】マンガでわかる
ビートたけし
(1947年〈昭和22年〉1月18日 - )
日本のお笑いタレント、司会者、映画監督、俳優、脚本家、歌手、編集家である。
本名:北野 武(きたの たけし)。東京都足立区島根出身。勲等は旭日小綬章。
タモリ、明石家さんまと共に、日本のお笑いBIG3の一角を担う。日本国外では本名北野 武で、映画監督として知られる。
概要
1980年代初頭に起こった漫才ブームの中で社会風刺を題材としたシニカルな笑いでツービートは人気を獲得、『THE MANZAI』『オレたちひょうきん族』(共にフジテレビ)などに出演し番組が大ヒット、一般人、芸能人問わず未だに発言や行動に多大な影響力をもつ人物の一人。
1990年代頃より司会業や映画監督業が中心で、中には20年以上続く番組がある。
映画監督時や『平成教育委員会』(フジテレビ系列)などの番組では本名の「北野武」名義を用い、その他の番組、映画で出演するときは芸名の「ビートたけし」でタレント活動している。
これに関して、2010年5月9日放送の『平成教育委員会』にて、「アカデミックな場所では『北野武』または『マス北野』、芸人として出る時は『ビートたけし』で使い分けている」との旨を述べた。
日本国外では基本的に本名である『Takeshi Kitano(北野武)』だが、『Beat Takeshi Kitano(ビートたけし北野)』と、いう、本名と芸名を併せた名義を使うこともある。
また、絵画では「ビートたけし・北野武」という名義で活躍もしている。
落語立川流Bコースの一員で、高座名「立川錦之助」を持つ。
近年は落語を口演する際、立川談春から一字もらい「立川梅春」を名乗っている。
東京都にある東京都立足立高等学校から明治大学工学部(現理工学部)機械工学科除籍(のちに特別卒業認定)。
元・東京芸術大学大学院映像研究科特別教授(2005年 - 2008年)
人物・特徴
ビートたけしは自らを「俺」「僕」「オイラ」と呼び、それぞれ場の雰囲気に合わせ使い分けている。
「オイラ」は下町・職人言葉の位置づけで、自身が育った島根町が職人街だったことと関連するとしている。
かつて足立区の広報誌から受けたインタビューでは、「足立は東京の下町だね。その足立の下町が島根だというの。
島根は下町の中の下町。足立の中の足立だって思うんだよね」とコメントした。
たけしのものまねをする際の動作として定番化している頻繁に首をひねる動作(しかし、たけし本人は1990年代以降はあまり見せなくなっている)は癖ではなく、ツービート時代に「トランポリンで飛び跳ねながら漫才をやってくれ」と頼まれ、稽古中に頭から落下してしまい頸椎を負傷、以後しばらくの年月に渡り首に違和感があったためと『週刊ポスト』の連載コラムで述べている。
たけしが司会のバラエティ番組などにおいて、他の出演者(主に女優や子供タレント、たけしより先輩のタレント等)がくだらないことを言ったり、話が噛み合わなかったりなどちょっとしたミスをするとたけしの近くにいるタレント(例:「世界まる見え!テレビ特捜部」の所ジョージ)やたけし軍団などの後輩芸人をたけしがピコピコハンマーやハリセン、メガホンで叩いて笑いに変えることがある(例:たけし「あいつを何とかしろ!ピコッ!」)。
これは、たけしが過去に出演した映画「戦場のメリークリスマス」において、監督の大島渚が、たけしがNGを出した場合、本業が俳優でないたけしへの配慮として助監督が代わりに叱られるというものから来ている。
このたけしのやり方によって、普段はなかなかツッコめない女優や先輩タレント相手または、ロケなどでちょっと離れた場所にいるタレントにも(間接的ではあるが)結果的にツッコむことができるので、このツッコミをマネする芸人もいる。
また番組冒頭で「というわけで(ございましてですね)…」という台詞と同時に司会を始めるたけしのスタイルは、元々は他の出演者に「どういうわけだよ!」とツッコミを貰うためのボケにすぎなかったが、バラエティ番組などで当たり前のように常用されている。
芸名(愛称)
愛称は「たけし」、多くの芸能人からは「たけしさん」と呼ばれるが、タモリや和田アキ子からは「たけちゃん」、たけし軍団やたけしを慕っている後輩芸人からは「殿」と呼ばれており、所ジョージからは「北野さん」や「おじさん」「おいさん」と呼ばれ、明石家さんまからはたまに「おっさん」「ビート」「タケ」と呼ばれる。
笑福亭鶴瓶からは「兄さん」とも呼ばれている。
主なキャラクター
火薬田ドン(FNS27時間テレビ)
殿(痛快なりゆき番組 風雲!たけし城)
鬼瓦権造(オレたちひょうきん族)
タケちゃんマン(オレたちひょうきん族)
事件・事故
フライデー襲撃事件
1986年12月9日、たけし軍団の一部メンバー11人を連れて講談社に行き、フライデー襲撃事件を起こし逮捕。
翌1987年6月10日に懲役6か月、執行猶予2年の判決が出された(東京地裁、確定)。
当時のレギュラー番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』『スーパージョッキー』への出演については、執行猶予判決が確定するまでの約8か月間謹慎することとなった。
なお、当時たけしと交際していたといわれた女性への暴行で告訴された記者は、罰金10万円の判決を受けた。
1987年、映画監督・深作欣二は、謹慎中の身にあったたけしと京都府において初対面。その印象を「非常に鋭い顔をしている。笑っていても目は笑わんし、顔立ちが独特だ。いろんな人間とシビアな闘争をしてきた男の顔だ」と語った。
バイク事故
1994年8月2日午前1時40分、原付バイクで東京都新宿区の安鎮坂付近を走行中に自損事故を起こし頭部に重傷を負った。
事故後は東京医科大学病院に救急搬送されて一命を取り留めたものの、長期の入院などにより約半年間に渡ってテレビ出演が出来なくなった。
また、事故は酒気帯び運転によるものだったために書類送検され、起訴猶予処分を受けた。
退院時に会見を行ったが、この時点ではまだ顔面が麻痺しており大きく変形した状態であったため、大変な反響を呼んだ。本人は「頭にボルトが入っていて飛行機の金属探知機に引っかかる」「顔面麻痺が治らなかったら芸名を顔面マヒナスターズにします」と、自らの怪我をネタにした。
退院後もリハビリを続け麻痺はある程度回復したが、一部は回復せず残ることとなった。
翌年3月4日の『平成教育委員会』でテレビ復帰し、その後レギュラー番組にも復帰した。
この事故で生死の境を彷徨っていた時、たけしの夢の中に、事故前の1993年に亡くなった親友の逸見政孝が出てきたとのこと。
たけしは「あれは、『まだ俺は死んじゃいけない。』って逸見さんが言いに来てくれたんじゃないかな」と、退院後のインタビューで答えた。
入院中に面識のない原節子から数珠を贈られ、これを常に身に着けていたが、退院後しばらくして突如壊れて散らばった。
たけしは拾い集めようとしたが、「これは病気が良くなった証拠だ」と思い直し、再び着けることはなかった。
なお、このバイク事故の第一発見者は、「光GENJI」の諸星和己だったことをたけしが話していたとして、現在の付き人のシェパード太郎が記している。
この事故により缶コーヒー「ジョージア」のテレビ広告への出演が決定しスケジュールも出ていたが、撮影中止となった。
なお、2016年秋に自身が出演した日清カップヌードルの広告にて、たけしがガムテープで補修だらけの原付バイクに乗るという1994年の事故を連想させるシーンが存在し、その広告の最後には「守ろう、交通ルール!」というセリフを発している。
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