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(漫画)麻原彰晃、壮絶な人生と死刑囚最後の瞬間を漫画にしてみた(マンガで分かる)@アシタノワダイ

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信じるか信じないかはあなた次第

 

 

 

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(漫画)麻原彰晃、壮絶な人生と死刑囚最後の瞬間を漫画にしてみた(マンガで分かる)@アシタノワダイ

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元信者体験記 わたしは見た!オウム真理教裏ワークの真相

1995年6月、私はオウム真理教を脱会した。それは偽装ではなく、心の底から「ここにいてはならない」と痛感したからだ。富士、上九一色での6年に及ぶ出家生活の中で、私はオウム真理教に少なからず疑問を持っていた。私はそこで何を見たのか?何を思っていたのか?人に伝えることはとても難しいと思うのだが、テレビ取材の際に描いたオウムのエピソードの絵を元に当時の事を語りたいと思う。

 

1988年

自宅にて 神秘体験

 

1988年、私は何気なく本屋で手にしたオウム関連の書籍に心を奪われた。書籍にある修行プログラムを初めて3ヶ月後、自宅で衝撃的なクンダリニーの覚醒を体験する。本に書かれている通りの神秘体験だった。まず尾てい骨の先端が振動する。そして尾てい骨の先端から熱い流動体が螺旋状に突き上げていく。クンダリニーの熱い流動体は私の背骨を駆け上がり大脳の中を暴れ回った。この体験により一気に解脱や悟りに興味が湧き、オウム入信を決意した。

 

東京世田谷道場 セミナー風景

道場では修行により解脱したとされる「大師」と呼ばれる人たちが、信徒の様々な相談に対応していた。毎回行われるセミナーではヨガの呼吸法等が伝授され指導された。オウムでは教団の教義として仏教や密教が掲げられこれを真理とした。そこに集う人たちは、カルマの法則、功徳のメカニズムを信じ、人類の救済を提唱する麻原氏を絶対的存在として崇めた。私もその中の一人であった。

 

某マンション 麻原氏との対話

道場に通いだしてからまもなく麻原氏と面談をする。信徒は1回3万円で麻原氏との個人面談を受けれる。私は今までの人生においての不運を話すと、麻原氏は「君は完全に大魔境だ。しっかり功徳を積んで乗り越えなさい」と語った。熱いものがこみ上げていった。オウムでは人の幸せや不幸はすべて過去のカルマに蓄積された結果であるとされ、功徳を積むことを提唱されている。チラシ折りや、知り合いを勧誘したりと、オウムの布教活動は多大な功徳が積めるとされていた。私は功徳を積んで、今までのふさぎがちな生き方を変えられると夢見た。

 

1989年 

富士山総本部道場 狂気の集中修行

1989年1月、私はミラレパ大師の進めで「狂気の集中修行」というセミナーに参加する。これは年に1回催されるオウムの一大イベントで在家信徒200名以上が参加した。修行プログラムは1日14時間を超える全10日間のセミナーで、毎年何人かの脱落者が出るほどのハードな内容である。立位礼拝という修行では五体を投地し大声で「グルとシヴァ神に帰依し奉ります!」と唱える。程良い広さを持つ道場は信徒らの声が大きく鳴り響いていた。私はこの年、悟り、解脱を目指し、尊師の提唱する「救済活動のお手伝い」をするために出家する。私が生まれてきた意味がこれなのだと確信していた。

 

富士オウム施設 ポアの間修行

出家して間もなく印刷班に配属となり、しばらくしてサマナ(出家修行者)に「ポアの間」修行が課せられた。それは畳一畳ほどの個室に入り外から鍵が掛けられ、テレビモニターから麻原氏の説法ビデオが24時間ずっと流される内容である。(内部からは電源が消せないようになっている)1週間は外に出られないのでオマルが用意され、食物は小窓から受け取る。睡眠中も説法を聞くのは潜在意識ににデータが入り修行が進みやすいという、その効果を生かす修行であるようだ。

 

富士オウム施設 ポアの間修行

1週間後、「ポアの間」から出される。印刷所の立ち上げで、同じグループに科学班の故村井氏もいた。長い間ずっと暗い部屋にいたため外の光がやたら眩しく感じる。そしてワークの日々に戻っていく。サマナには休息はなく、自由時間もなく、恋愛やオウム食以外の食べ物も許されない。それらが戒律とされていて、それを破る者は罰則すら行われた。ひたすらグルを仰ぎ、功徳を積むために全力でワークに励むことが最短の解脱への道である。私たちサマナは、自らが悟ることで人類の救済となると信じていた。麻原氏が提唱する3万人のブッダの一人となり、ハルマゲドンを回避させる使命感を持って。

 

1990年

富士山総本部道場 ビニール囲いのシェルター

オウムの救済活動とは、全人類を真理に結びつけ高い世界に転生させる事である。1990年2月、尊師はより救済活動を進めるために、真理党を立ち上げ衆議院選に立候補した。しかし選挙活動の甲斐も無くあっけなく惨敗した。そしてこの年、尊師は説法でオースチン彗星接近による大災害を予言し、突然サマナと信徒を石垣島へ大移動させた。日本の都市部での大災害を逃れての事と思ったが、石垣島へ着いたかと思うとすぐさま元の場所へ帰る指示があった。サマナや信徒らも狐に摘まれたような思いの扱いのされ方だった。帰ると富士道場等の内部をビニール貼りのシェルター化の作業が待っていた。だが予言された期日に災害等は何も起こらず、尊師の予言がはずれたのだと思った。その後、しばらく東京には行くなという内部通達。科学班の秘密ワークって言葉がサマナの間で囁かれた。私は他のサマナ同様、首を傾げていた。

 

富士山総本部道場 実験室

富士道場のシェルター造りと並行して、1階の食堂が化学班の実験室に改装されていた。ドアは道場2階のシェルター同様に潜水艦のハッチの二重扉となっており、白衣をきた化学班のサマナが出入りしている。それは救済にとって重要なワークであると他のサマナから伝え聞いた。救済活動が化学とは無縁と思えたので、また私は首を傾げた。

 

上九一色村 謎のプレハブ

この年からオウムは上九一色村に施設をかまえるようになる。そこは富士総本部道場から1時間くらいの距離にある。ある日、科学班のプレハブに某師が東京で買った部品を届けに行く。マンジュシュリー大師(故村井氏)に届けるのだそうだ。戻ってきた師はプレハブを見ながら呟いた。「尊師もすごいこと考えるよ。さすが最終解脱者だ。これで日本の歴史が変わるぞ」。その時は私にはその言葉の意味がさっぱり分からなかった。その言葉の意味が心に閃いたのはそれから3年後のことである。

 

1994年

第2サティアン キリストのイニシエーション

1994年6月、サマナ全員に効果的なイニシエーションが執り行われる。その名は「キリストのイニシエーション」。サマナは何も内容を知らされずにイニシエーションの順番を待った。尊師から渡されるワイングラスに微妙に入れられた黄色い液体。苦みを伴ったパイナップルの味がする。飲み干すとすぐに一人一人個室に入れられた。

 

第2サティアン キリストのイニシエーション

そしてシールドルームと呼ばれる壁全面に鉄板を貼られた個室に入り、8時間の瞑想修行となる。しかし特に修行プログラムは言い渡されていないので、効果的なイニシエーションらしいが個室に入るだけかと少し呆気にとられていた。30分くらいたった時、めまいがしてきて徐々に体の力が抜けていった。めまいは治まるどころか、ろれつもまわらない状態になり慌てて担当者を呼んだ。

 

第2サティアン キリストのイニシエーション 

意識がもうろうとする中、クリシュナ・ナンダ師(林郁男被告)がドア向こうにいたのが見えた。私は気分が悪いと話したのだが、特に心配することは無く、「これがイニシエーションの効果です。これから過去に行っていろいろ体験するから覚えて帰ってきなさい」と言うと、ゆっくりとドアを閉めてしまった。天井の明かりは消えたようだ。

 

第2サティアン キリストのイニシエーション 

 

身体がぶよぶよに溶けていく感じがする。幾何学模様がたくさんうごめいている。様々な感情の波が押し寄せる。まるで果てしない心の旅をしているようだ。自分の身体が宇宙大に膨れ上がるような感覚。私はいろんな人格になって、暴れ出したり、大声で笑ったり・・。途中で取り押さえられたらしく縄で手足を縛られているのに気づく。ドアにタックルして外に出ようとして、担当の女性サマナが来て注意された。個室に入って8時間くらいたっていた。その後、同じイニシエーションを受けたサマナの一人があれはLSDではないかと話していた。しかも相当量のらしい。神秘体験なら私もいくらかはあるのだが、今回のはそういう類のものでは無いという気分だ。内側では無く、外から遺物が入ってきたような・・。薬と思っても不思議では無かったが、そばにいたサマナが薬だなんて思うのは尊師への冒涜だといい這っていた。

 

1994年つづき 

第7サティアン 戦慄の秘密ワーク

1994年、この年、私は科学班に移動になり、師のステージに昇格され、裏ワークに配属となる。よく裏ワークという言葉を聞いてはいたが、他部署にいた私はその実態を知るわけでは無い。第7サティアン。そのプロジェクトは最も秘密性が高く重要なワークと聞かせれ、事実、科学班のそうそうたるメンバーが顔を連ねていた。巨大なプラントの正体は私には明かしてもらえなかった。科学班になってからというもの、嫌嫌着ていた作業着に防臭マスクにゴム手袋という異様な姿で、私は呟いた。「俺は今、オウムの最前線に来ている」と。この第7サティアンで、最も尊師が意思されるワークで功徳を積むのはサマナにとって光栄なことと思う反面、心は妙にさめている。強アルカリ水の水槽に溶けていく蛾の死骸を見るのも嫌だが、ここにいるサマナは皆どんよりしているように見えた。私が前々から師と尊敬していた彼らの何人もがだ。

 

第7サティアン 戦慄の秘密ワーク

第7サティアンの内部は非日常的な空間だ。不気味な形をした反応釜。異様な悪臭。錆びついた金属。硫酸が水と反応して白い煙を発している。床にこぼれた強アルカリは人の爪をも溶かす。不気味に響く周期的な機械音はこのプラントの可動実験を行っているのだろうか。ある日ここで死ぬ思いになった事がある。プラント全体を白い煙が包み、それを吸い込み息が苦しくなった。逃げ遅れたら確実に死んでいると確信した苦しさだった。私はこの場所が怖かった。

 

クシティガルバ棟 記憶の中の白い残像 

第7サティアンに隣接する化学班施設クシティガルバ棟。私は物を届けに1度だけここに入ったことがある。一番奥の部屋に白い理科室のような部屋がある。試験管やビーカーみたいなものがあったような気がする。中のサマナは白衣を着ていた。こんな光景どっかで見たと思い、富士総本部の1階の研究室を思い出した。化学好きのオウムのする事だと思うと今さら不自然には思わないが。

 

1995年

清流オウム施設 新型サリン噴霧車 

1995年3月、マスコミの「地下鉄サリン事件」のオウム犯行説の噂話がサマナたちの間で飛び交う中、教団施設に2000名を超える機動隊が周りを包囲した。私は坂本弁護士事件と同様、とんだぬれぎぬだとか、フリーメイソンの陰謀だとか思い、オウム犯行説など信じなかった。尊師が否定しているわけだし。緊張状態が続く中、私は清流施設で1台のトラックの解体の作業にまわされる。上からの急ぎだとかで、師たちが大慌てで作業している。私はトラックの内部を見て、急に妙な戦慄を覚えた。私は自分のことを、ものすごく鈍感なタイプだと自称している。しかし鈍感な私でさえも気がついてしまったようだ。

 

清流オウム施設 新型サリン噴霧車

トラックの内部は大きな金属製の水槽に煙突が取り付けられ、その煙突の先がトラックの天井から上に突き抜けていた。その横に大型のコンピューターが備えており、さらに奥には制御モニターとオペレーター用の椅子が据え付けられている。その椅子には正大師と書かれた紙が貼られている。正大師とは科学班最高責任者マンジュシュリー正大師(故村井氏)である。私はその時それが気体噴霧装置であるという事を知った。そこで謎が解けた。点は線で繋がれた。裏ワークの謎が解けてしまった。 「毒物を撒く・・。プラントや実験室やこんな車もあるわけだな。」尊師のヴァジラヤーナ説法を思い出した。「殺す事もまた救済・・」今の悪業の多い人類はむしろ殺してあげたほうがその人のためになると、教義にはある。それにしてもこの裏ワークを知らされた師は少しも憤りを感じなかったのだろうか?

 

警察署 殺人容疑 

1995年5月、麻原が警察に逮捕され、その2日後に私も逮捕された。罪状は殺人容疑。第7サティアン関係のサマナは大体逮捕者リストに上がっていた。私は地下鉄サリン事件に直接関わってはいないが、警察の取り調べは激しく続いた。幹部の自供でオウムの犯行を聞かされたが、麻原がなぜそうしたのかを理解出来ずにいた。タントラヴァジラヤーナの教義では、殺すことも結果的に善の行為とされる。殺されたほうも高い世界へポアされると教義ではそうなっているが。確かにオウムは選挙活動以降、戦うことを強調していた。敵は巨大な闇の勢力と思っていた。しかしオウムが攻撃したのは何の罪の無い一般市民だ。多くのサマナの顔が浮かんでは通り過ぎる。私たちが人に良かれとしてきたつもりがまさかこんな結末をたどるとは・・。拘置所で私の心は麻原に向かって叫んだ。「お前は何者なのだ!?」と。

 

検察所 帰還そして空白の未来へ

事件に直接には関わっていない事から23日間で釈放となった。私はこれから人生をどう生きていけばいいか正直言って分からなかった。空白の未来だ。例えば、好きな物を食べる。好きな趣味を楽しむ。友達と遊ぶ。恋をする。どれもが今の凍りついた心には関心を示さないようだ。確かなことは、「何もかも信じられない」ということだ。救済だの悟りだのきれい事で自己を肯定し、そして自己を犠牲にしたらどんな災いが生じるのか思い知った。自分を愛せない人間は世界もその人を愛さない。もう2度と過ちは犯さないとそう心に誓った。

 

http://www.cnet-sc.ne.jp/canarium/2-3.1.html

 

 

 麻原彰晃の生い立ちとは!両親や兄弟など家族構成は?若い頃の画像やTV出演なども調査

オウム真理教の麻原彰晃こと松本智津夫の生い立ちが話題となっているようです。麻原彰晃の両親や兄弟など、家族構成は判明しているのでしょうか?また、若い頃の画像やテレビ出演歴などについても調べてみました。麻原彰晃の生い立ちや家族、若い頃について紹介します。

 

麻原彰晃(松本智津夫)のプロフィール

麻原彰晃は本名を松本智津夫と言います。逮捕以前は麻原彰晃と紹介されることが多かったようですが、逮捕後には本名の松本智津夫で紹介されることが増えたようです。麻原彰晃の生い立ちについては後ほど詳しく紹介しますが、まずは麻原彰晃の死刑執行までの経歴について見ていきましょう。

 

麻原彰晃の死刑執行までの経歴

麻原彰晃こと松本智津夫がオウム真理教の前身となる団体を立ち上げたのは、1984年頃のことだったようです。この頃には妻である松本知子とも結婚しており、麻原彰晃は超能力などの開発を行う「鳳凰慶林館」という学習塾を営んでいました。

この「鳳凰慶林館」がヨガの道場となり「オウムの会」に名称も変更されます。この頃から麻原彰晃は本名の松本智津夫ではなく、「麻原彰晃」と名乗り始めたとのこと。「麻原彰晃」という名前には、「アシュラ・シャカ」という意味が込められているそうです。

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1986年にはヨガの道場だった「オウムの会」を宗教法人化し、「オウム神仙の会」と名称を変更します。宗教法人化した理由は、宗教法人になると税金が優遇されるという事情があったようです。この頃から麻原彰晃は「フリーメイソンと闘うことになる」など、暴力行為を容認するような発言をしていました。

ただ、この頃の麻原彰晃は、子供たちに対しては「蚊に刺されると嫌かもしれないけど蚊も生き物」、「世界には食べ物が食べられない子供もいる。食べ物を粗末にするのはやめよう」などを諭すような優しい父親だったという情報もあります。

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ヨガ道場として運営されていた「オウム神仙の会」は、1987年に「オウム真理教」と名称を改めます。この時に、これまでのヨガ路線から仏教系路線への変更を麻原彰晃が指示。ヨガ道場を訪れる人などを中心に、布教活動を行っていきました。また、オカルト雑誌への広告なども積極的に出していたようです。

オウム真理教を仏教系の宗教団体へと変更することを決めた麻原彰晃は、ダライ・ラマ14世にも何度か面会。ともに瞑想をした時にダライ・ラマ14世に高く評価されたようです。このこともオウム真理教の信者を増やすきっかけとなりました。

1987年頃から麻原彰晃は暴力行為や殺人を肯定する教えを説いていたようで、1989年には男性信者殺害事件、坂本堤弁護士一家殺害事件を起こします。これらの事件が明るみに出るまでの間、オウム真理教は新興宗教ブームやオカルトブームに乗って、テレビ番組にも多数出演。若者を中心に多くの信者を獲得していきました。

1993年に麻原彰晃は「すべての魂をポアする」と宣言し、信者たちに武器の製造や化学兵器の製造を命じます。そして、薬剤師リンチ殺人事件、松本サリン事件を経て、1995年に地下鉄サリン事件を起こしました。この事件をきっかけに、オウム真理教の多数の幹部が逮捕され、麻原彰晃も逮捕されます。

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逮捕された麻原彰晃は、オウム真理教が起こした17の事件で起訴されます。その事件のうち、26人に対する殺人の罪も問われました。裁判で麻原彰晃はほとんどまともな受け答えができず、弁護人が「すべては幹部たちがやったこと」として無罪を主張。しかし2006年に麻原彰晃の死刑判決が確定します。

その後も幾度かの再審請求があり、訴訟能力の有無についても議論されましたが、2013年に最高裁判所は再審を認めない決定を下しました。そして、麻原彰晃は2018年7月に死刑を執行されています。

麻原彰晃(松本智津夫)の生い立ち

麻原彰晃の生い立ちについても詳しく見ていきましょう。麻原彰晃はどのような生い立ちをたどってきたのでしょう?また、その生い立ちは、数々の凶悪事件にどのような影響を及ぼしたのでしょうか?麻原彰晃の生い立ちについて調べてみました。

生い立ち①1955年に熊本県八千代に誕生

麻原彰晃が誕生したのは1955年です。熊本県八千代市で生を受けました。熊本県八代市は畳表の原料となるい草の生産が日本一であることでも知られており、麻原彰晃の父親も「松本畳店」を営む畳職人だったと言われています。現在も八代市のい草の生産は、国産の8割を締めているとのこと。

また、八代市にある八代港は、1890年頃から近代的な港湾として整備され、セメント工場や製紙工場、酒造工場などが建ち並ぶ八代臨海工業地域として発展しました。

生い立ち②先天性緑内障で片目はほぼ見えず

麻原彰晃は先天性緑内障を患っており、片目はほぼ見えない状態で生まれたとのことです。実はこの先天性緑内障は、水俣病の影響ではないかという説があるのだとか。麻原彰晃が生まれた熊本県八代市は、水俣病が発生した水俣市と同じ不知火海(八代海)に面しています。

麻原彰晃の家族は、長兄が全盲、弟も色弱など、目の障がいを持って生まれた兄弟が他にもいました。麻原彰晃は水俣病の患者として役所に申請をしたこともあったとのこと。しかしこの申請は却下されたそうです。

生い立ち③貧困家庭の幼少期

麻原彰晃の生い立ちを調べてみると、幼少期は非常に貧しかったことが分かりました。麻原彰晃の家族は男6人女3人の9人兄弟で、麻原彰晃は7番目の子供として生まれます。両親を合わせると、11人家族だったとのこと。

父親は畳職人をしていたものの、11人の家族を養うというのは大変なことだったようです。さらに、麻原彰晃が生まれた時には畳の需要も減り始めていた時期だったようで、なおさら生活は困窮を極めたと言われています。

生い立ち④八代市立金剛小学校から盲学校に転校

麻原彰晃は全盲ではなかったものの、片目がほぼ見えないという状態だったために、小学校を八代市立金剛小学校から盲学校に転校しているそうです。ただ、麻原彰晃は片目は普通に見えたということもあり、盲学校への転校を泣いて嫌がったのだとか。

盲学校は寄宿舎制度となっていたそうですが、授業料も寄宿舎の費用も無料だったそうです。先に紹介したように、麻原彰晃の家庭は非常に貧しかったために、寄宿舎に入れば食費がかからなくて済むという利点があります。麻原彰晃は、口減らしのために盲学校へ入学させられたのではないかとも言われているようです。

生い立ち⑤学生時代は暴力や恐喝の繰り返し

麻原彰晃は盲学校時代から、オウム真理教で起こした数々の凶悪事件を彷彿させる事件を起こしていたとされています。麻原彰晃は片目が見え、全盲ではなかったために、全盲の学生を暴力などで恐喝し、支配していたのだとか。

麻原彰晃が全盲の学生から恐喝で巻き上げた金額は、合計で300万円にもなったと言われています。盲学校の教師たちからは、麻原彰晃があまりにも凶暴なため、「退学させてはどうか?」という意見も出ていたそうです。麻原彰晃のこうした凶悪な一面は、貧困を極めた生い立ちにも関係しているのかもしれません。

麻原彰晃(松本智津夫)の両親や兄弟など家族構成

麻原彰晃こと松本智津夫の両親や兄弟などの家族構成についても見ていきましょう。麻原彰晃の実家の家族構成は判明しているのでしょうか?麻原彰晃の両親や兄弟などの家族構成について調べてみました。

麻原彰晃(松本智津夫)の家族構成

麻原彰晃の家族構成については先ほども生い立ちとして少し触れましたが、両親に兄弟が9人の11人家族です。麻原彰晃には3人の兄と2人の弟、3人の姉がいたのだそうです。麻原彰晃はこの兄弟たちの中でも、特に長兄を慕っていたと言われています。

麻原彰晃は長兄、弟とともに、盲学校に転校させられました。盲学校時代には、他の学生たちは休みの日には帰省していたそうですが、麻原彰晃の兄弟たちは、家に帰ると食費がかかるということで帰省していなかったそうです。

父親は大韓民国全羅北道益山郡春浦面生まれ

麻原彰晃の父親について、その生い立ちなどをもう少し詳しく見ていきましょう。麻原彰晃の父親はの大韓民国全羅北道益山郡春浦面で生まれたとのこと。終戦後に日本に引き揚げ、叔父を頼りに熊本県八代市に住むようになったそうです。

麻原彰晃の父親が韓国で生まれたのは、韓国人だからということではないとのこと。麻原彰晃の祖父が戦前に朝鮮半島に渡っていたため、そこで生まれたという経緯があったようです。

祖父は警察署長

麻原彰晃の祖父は日本で警察官をしていましたが、その後、戦前に朝鮮半島に渡り、そこで警察署長をしていたそうです。麻原彰晃の祖父がその後どうなったのかについては不明ですが、祖母は朝鮮半島で亡くなったとされています。

また、麻原彰晃の祖父や父親が朝鮮半島にいた経歴があったことで、麻原彰晃自身に在日韓国人説が流れたことがあったようです。ただ、調べてみたところ、麻原彰晃が在日韓国人であるという証拠は見つからなかったとのことでした。

麻原彰晃(松本智津夫)の若い頃を色々調査

麻原彰晃こと松本智津夫の若い頃についても見ていきましょう。麻原彰晃の若い頃はどのような人物だったのでしょうか?また、麻原彰晃が若い頃にはどのようなことがあったのでしょう?麻原彰晃こと松本智津夫の若い頃について調べてみました。

麻原彰晃(松本智津夫)の若い頃の画像

麻原彰晃こと松本智津夫の若い頃の画像を探してみました。こちらの画像の右側が1990年頃の麻原彰晃の画像です。1990年といえば、麻原彰晃は35歳の頃です。この頃の麻原彰晃はすでにオウム真理教を立ち上げており、衆議院議員選挙にも立候補していました。

また、男性信者殺害事件、坂本堤弁護士一家殺害事件は、この写真の2年前には起こっています。オウム真理教元幹部で麻原彰晃の愛人だった石井久子は、「中性的なヨガの先生」と若い頃の彼を表現していました。

若い頃(学生時代)の夢は内閣総理大臣?

麻原彰晃の若い頃の夢は内閣総理大臣だったという話もあるようです。調べてみると、麻原彰晃は学生時代、田中角栄や毛沢東などの国のトップの政治家に傾倒していたとのこと。麻原彰晃は東京大学法学部を卒業し、自民党の政治家となり、ひいては内閣総理大臣になることを夢見ていたそうです。

この頃の麻原彰晃は、学校の政調会長や寮長などに立候補しますが、すべて落選しています。1990年に麻原彰晃が衆議院銀選挙に立候補したのも、こうした「内閣総理大臣になりたい」という野望を叶えるためだったのかもしれません。

熊本大学医学部受験を断念

麻原彰晃は若い頃、大学の医学部に入り、医者になるという夢を抱いていたことがあったようです。医者になりたいと考えたのは、「自分のような病気を持つ人の手助けになりたい」という動機からだったとのこと。

麻原彰晃は医者になるために、熊本大学医学部を目指そうとします。しかし、視覚障害者では医師免許を取得することができないという事を知り、麻原彰晃は熊本大学医学部の受験を断念したそうです。

東大受験を諦めた後に鍼灸院を開院

熊本大学医学部の受験を断念した麻原彰晃は、政治家を目指すため東京大学文科1類の受験を決意します。1977年、22歳の頃に代々木ゼミナールに通い始め、東大への受験に挑戦しますが、3度失敗しているようです。

その後、東大受験を諦めた麻原彰晃は、妻である松本知子と結婚し「松本鍼灸院」を開院。鍼灸師として仕事を始めます。麻原彰晃の鍼灸師としての評判はかなり良かったようです。

若い頃にはテレビ出演もしていた?

麻原彰晃は若い頃、幾度かテレビにも出演しています。オウム真理教は後に数々の凶悪事件を起こしていたことが判明しますが、それ以前にはテレビなどのメディアに引っ張りだこの人気の時期がありました。一部のオカルトファンの間で麻原彰晃は、カリスマ的な人気を集めていたそうです。

ビートたけしとの対談に注目が

1991年には麻原彰晃がビートたけしと対談したことも話題となりました。この時の対談は非常に盛り上がったようで、ビートたけしは麻原彰晃のことを「麻原さんは面白い」と絶賛していたのだそうです。

こうした経緯もあり、2018年に麻原彰晃の死刑が執行された際、ビートたけしは曖昧なコメントに終始していたとのこと。結果的に自身がオウム真理教の広告塔のような役割を果たしてしまったことに、ビートたけし自身も複雑な思いを抱いていたのかもしれません。

『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』にも出演

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麻原彰晃は「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」にも出演したことがあったようです。これも1991年頃のことだったようで、麻原彰晃は番組のスペシャルゲストとして出演していました。この時には「髪を洗う時にリンスをするのか?」など、かなりフランクな質問が飛び交っていたようです。

高山文彦著書『麻原彰晃の誕生』にも若い頃の様子が

高山文彦の著書「麻原彰晃の誕生」にも麻原彰晃の若い頃の様子が描かれているようです。高山文彦はノンフィクション作家で、「麻原彰晃の誕生」は麻原彰晃の周囲を丁寧に取材し、彼の幼少期からの生い立ちを客観的視点で描いた作品とのこと。レビューも高評価をつけているものが多いようです。

麻原彰晃(松本智津夫)の生い立ちは貧困生活で盲学校出身

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麻原彰晃こと松本智津夫の生い立ちについて紹介してきました。麻原彰晃の生い立ちは決して恵まれたものとは言いがたく、口減らしのために盲学校に入れられるなど、性格が屈折してしまう原因となることは多々あったようです。ただ、それが地下鉄サリン事件などの凶悪犯罪を引き起こしても良い理由には決してならないでしょう。

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