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【連合赤軍】あさま山荘事件の全容とその後、そして現在。日本初の超法規的措置とは何だったのか漫画にしてみた(マンガで分かる)@アシワダの避難所

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信じるか信じないかはあなた次第

 

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ポイント① 5人の男があさま山荘に9日間立てこもった

ポイント② 連合赤軍の残党メンバーが立てこもりをした

ポイント③ 犯人を生きたまま確保する決断をした

ポイント④ 数日間、様々な侵入を試みた

ポイント⑤ 9日後、メンバー全員が逮捕された

 

あさま山荘事件

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あさま山荘事件または浅間山荘事件(あさまさんそうじけん)は、

1972年(昭和47年)2月19日から2月28日にかけて、長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器製作所の保養所「浅間山荘」において連合赤軍の残党が人質をとって立てこもった事件である。

 

概要

1972年(昭和47年)2月19日、日本の新左翼組織連合赤軍の残党メンバー5人が、管理人の妻(当時31歳)を人質に浅間山荘に立てこもった。

 

山荘を包囲した警視庁機動隊及び長野県警察機動隊が人質救出作戦を行うも難航し、死者3名(機動隊員2名、民間人1名)、重軽傷者27名(機動隊員26名、報道関係者1名)を出した。

 

10日目の2月28日に部隊が強行突入し、人質を無事救出、犯人5名は全員逮捕された。

人質は219時間(約9日)監禁されており、警察が包囲する中での人質事件としては日本最長記録である。

酷寒の環境における警察と犯人との攻防、血まみれで搬送される隊員、鉄球での山荘破壊など衝撃的な経過がテレビで生中継され、注目を集めた。

 

2月28日の総世帯視聴率は調査開始以来最高の数値を記録し、18時26分(JST)には民放、日本放送協会(NHK)を合わせて視聴率89.7%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)に達した。

同日のNHKの報道特別番組(9時40分から10時40分に亘って放送)は、平均50.8%の視聴率(ビデオリサーチ・関東地区調べ)を記録した。

これは事件から45年以上が経過した現在でも、報道特別番組の視聴率日本記録である。

 

浅間山荘の概要と現在

事件の舞台となった浅間山荘は当時、「軽井沢保養所浅間山荘」という名前で河合楽器製作所健康保険組合が所有しており現在の軽井沢レイクニュータウン内にあった。

 

軽井沢レイクニュータウンは1962年より開発が始まったリゾート別荘地で、多くのホテルが立ち並び、1963年には軽井沢湖という湖も完成し人気を博したが、山奥という事もあり、競合するリゾート地が現れ始めると徐々に下火となっていった。

 

現在は当時の開発区域の一部だけが残っており、2007年には軽井沢湖のほとりに軽井沢レイクガーデンという英国式庭園が開業したが、かつて程の賑わいはなく山奥の静かな別荘地として存続している。

 

事件の発端

1971年

1970年代初頭、連合赤軍の前身である日本共産党(革命左派)神奈川県委員会(マスコミ通称「京浜安保共闘」)および共産主義者同盟赤軍派の両派は、それぞれ連続銀行強盗事件および真岡銃砲店襲撃事件を起こして資金や銃・弾薬を入手し、特異かつ凶暴な犯行を繰り返しながら逃走を続けていた。

これに対し警察は、都市部で徹底した職務質問やアパートの居住者に対するローラー作戦を行いながら(真岡銃砲店襲撃事件が発生した1971年2月は「捜査強化月間」とされ、全国24万箇所の一斉捜査が行われた)、総力を挙げてその行方を追っていた。

一方、一連の学園紛争が終焉を迎えた当時にあって、マスコミ関係者の間でも一部の公安担当記者らを除いては両組織の存在すら知られていなかった。

警察に追われていた両派のメンバーは、群馬県の山岳地帯に警察の目を逃れるための拠点として「山岳ベース」を構え、連合赤軍を旗揚げした。

潜伏して逃避行を続けていたが、まもなく警察の山狩りが開始されたうえ、外部からの援助なども絶たれたため、組織の疲弊が進む。

1971年の年末から、山岳ベースにおいて「銃による殲滅戦」を行う「共産主義化された革命戦士」になるための「総括」の必要性が最高幹部の森恒夫や永田洋子によって提示され、仲間内で相手の人格にまで踏み込んだ自己批判と相互批判が次第にエスカレートしていき、「総括」に集中させるためとして暴行・極寒の屋外での束縛・絶食の強要などされた結果、約2ヶ月の間に12名にも及ぶ犠牲者を出し(山岳ベース事件)、内部崩壊が進んでいた。

同時に群馬県警は350名を動員して大規模な山狩りを開始しており、県内の山岳ベースで息を潜めていた連合赤軍メンバーに対する包囲網は迫っていた。

 

1972年

1972年2月15日、近隣住民から「不審な火の手が上がっている」との通報を受けて駆けつけた群馬県警が榛名ベースの焼け跡を発見した。

妙義山ベースに潜伏中であった坂口弘らは、直前まで事実上の拠点として使用していた榛名山ベース跡地発見のニュースをラジオで知ると群馬県警察の包囲網が迫っていることを悟り、メンバーに迦葉山ベースの解体を指示するとともに資金調達のために上京していた最高幹部の森と永田と協議するべく、東京へ向かおうとした。

坂口・植垣康博ら5人は森・永田との合流のため東京で借りたレンタカーのライトバンで出発したが、妙義湖近くの林道で泥濘に嵌り身動きが取れなくなったところを付近を捜索していた警官2人に見つかり、職務質問を受ける。

警官らは当初車両の脱出を手助けしていたが、指名手配されていた坂口・植垣ら3人は警官が目を離している隙に逃亡、残されたメンバー2人は9時間の車内での籠城の末(この間に車内の男女は警官らの呼びかけに一切応じず、缶詰を食べたり、放尿したりした)、迦葉山ベースを作った際に国有林の木を違法伐採したとする森林法違反(森林窃盗)容疑で逮捕された。

この間に運良く通りかかった工事用トラックに便乗させてもらいベースに戻ることができた坂口らは、留守をしていた6人のメンバーを引き連れて(合計9人)、森・永田不在のまま、急遽山越えにより群馬県を出て隣接する長野県の佐久市方面へ逃げ込むことにした。

長野県では、まだ警察が動員されていないと思われていたためである。

同日、警察は迦葉ベース跡地も発見し、連合赤軍メンバーの足取りを徐々に掴みつつあった。

事態を受けて、冬期は少人数しか配置されていなかった軽井沢署が限られた人員を割き、署長も含めた署員らが拳銃を携行して和美峠で逃走者を待ち構えていたが、連合赤軍メンバーは警察が警戒しているであろう道路を避け、敢えて急斜面の沢を伝って移動する困難なルートを選択した。

ヘリコプターやパトカーをかわしながら雪山の道なき道を進んだ連合赤軍は、装備の貧弱さと厳冬期という気象条件が重なって山中で道に迷い、軽井沢へ偶然出てしまった。

なお、警戒中の警官らによって、夜間に山中を移動しているメンバーの懐中電灯の光や夜が明けて残されていた足跡が発見されたが、あまりにも奥深い場所であったことや足跡の周辺の雪が崩れていたことなどから(メンバーは先導者の足跡を踏んで移動することで、足跡から判別できる人数を偽装していた)、いずれも「下山中の猟師だろう」「前日見落とした古い足跡だ」と判断された。

仮に両者がこの時点で接触して銃の撃ち合いになっていた場合、ライフルを持つ連合赤軍に対し警察は拳銃で野外の銃撃戦を挑まねばならず、大きな被害を出していたであろうとも言われる。

一方、都内にいた森と永田も、榛名山・迦葉山ベース跡地が発見されたことを知って、坂口たちと合流すべく妙義山ベースに向かうが、既にベースを捨てて脱出した坂口らと入れ違いになり、2月17日に山狩りをしていた警察官に見つかり抵抗の末逮捕された。

2月19日午前、山中でビバークした連合赤軍メンバーは、植垣ら4名を偵察を兼ねた食料などの買い出しに町へ派遣した。

しかし、軽井沢駅の列車内で、2手に分かれていた植垣グループは職務質問を受けた。

一方は手製爆弾や実弾を所持しているのを見つけられて銃刀法違反の現行犯で逮捕され、もう一方も咄嗟に住所として答えた長野市内の地名がデタラメであることを地元出身の警官に見破られ、逃走を試みたが逮捕される。

 

この逮捕劇の発端は、長期間入浴していなかったため悪臭を放っていたメンバーらを駅売店の店員が不審に思い、駅の助役に通報したことであった。

 

こうして29名いた連合赤軍メンバーは、ここに至るまでに12名が山岳ベースで殺害され、4名が脱走、8名が逮捕された結果、事件発生直前には坂口・坂東國男・吉野雅邦・加藤倫教・加藤倫教の弟(以降、「加藤弟」と表記)の5名を残すのみとなっていた。

 

レイクニュータウン付近の雪洞で待機していた連合赤軍メンバーはラジオで4人の逮捕のニュースを知ると、自分たちが軽井沢にいることを悟るとともに警察の追跡を恐れて移動を開始した。捜査陣も逮捕者らがレイクニュータウン方面から来たことを聞き込みで突き止めて捜査網を狭めた。

カップヌードル

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事件当時の現場は、平均気温が摂氏マイナス15度前後で、機動隊員たちのために手配した弁当は凍ってしまった。

地元住民が炊き出しを行い隊員に温かい食事を提供したエピソードがあるが、実際にこれにありつけたのは外周を警備していた長野県警察の隊員のみであり、最前線の警視庁隊員に配給されるころには、炊き出したカレーライスも蠟細工のように凍っており、相変わらず凍った弁当しか支給できなかったという。

やむなく、当時販売が開始されたばかりの日清食品のカップヌードルが隊員に配給された。

 

手軽に調達・調理ができた上に、寒い中長期間の勤務に耐える隊員たちに温かい食事を提供できたため、隊員の士気の維持向上に貢献したといわれている。

もっとも、佐々淳行の著書によれば、カップヌードルは警視庁が補食として、隊員に定価の半額で頒布したものであるが、当初長野県警察・神奈川県警察の隊員には売らず(警視庁の予算で仕入れ、警視庁が水を汲んで山に運び、警視庁のキッチン・カーで湯を沸かしたからというのがその理由)、警視庁と県警との軋轢を生んだとある。

このカップヌードルを食べる隊員達の姿が、テレビの生放送で幾度も大写しで報じられ、平均視聴率50%を超える注目度もあって、同商品の知名度を一挙に高めた。

 

直後から他県警や報道陣からの注文が相次ぎ、それが更に大きく報道されたことで、カップヌードルの売上は爆発的に伸びて一躍ヒット商品となった。

あさま山荘事件 - Wikipedia