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(漫画)北朝鮮から韓国へ命懸けで脱北した人の実態を漫画にしてみた(マンガで分かる)

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(漫画)北朝鮮から韓国へ命懸けで脱北した人の実態を漫画にしてみた(マンガで分かる)

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温かい食事が欲しかった…… 4度目の挑戦で韓国への亡命を果たした、ある脱北者の実体験

  • 32歳の脱北者スコット・キム(Scott Kim)さんは、北朝鮮を脱出して中国で捕まった後、その身に起きた生々しい現実を語った。
  • キムさんは強制収容所に送られ、他の収容者とともに「動物のように扱われた」と言う。
  • 4度目の脱北で、韓国にたどり着いたキムさんは現在、自動車・鉄道部品の販売会社を経営している。

 スコット・キムさんが初めて北朝鮮から脱出したのは2001年、17歳のときのことだ。当時、彼と彼の母親は、温かい食事にありつけるのではないかと、国境を越え、中国へ行くことを望んでいた。

1990年代後半の北朝鮮の深刻な飢饉の中で育ったキムさんは、子ども時代の多くを飢えと戦ってきた。

 

キムさんは現在、韓国で自動車・鉄道部品の販売会社を経営している。

ソウルにある脱北者の英語力の向上を手助けするボランティア団体「北韓離脱住民グローバル教育センター(TNKR)」の支援を受けながら、自身の経験についての回想録を英語で執筆中だ。

 

しかし、ソウルにたどり着くまでの、北朝鮮と中国を出たり入ったりしていた6年間は、長く危険なものだった。

 

脱北者の大半はまず、北朝鮮の北の国境、豆満江もしくは鴨緑江を渡って中国へ出る。その後、ラオスやベトナムと接する南の国境を目指し、中国の広大な国土を密かに移動。そこからタイもしくはカンボジアへ渡り、現地の韓国大使館に支援を求める。この一連の旅の費用は最大5000ドル(約55万円)にのぼり、国外脱出を助けるそれぞれの国の「ブローカー」に支払われる。

韓国やアメリカへ亡命するために5000ドルを払うことは、キムさん親子には到底無理だった。そこで親子は中国で不法移民として暮らし、農場の労働者として働いた。しかし北朝鮮を出てから1年後、キムさんの状況を知る隣人が警察に通報、親子は北朝鮮へと連れ戻された。当局が脱北者の送還先を決める収容所にキムさんは連行された。

「北朝鮮の収容所に着いたとき、人間としての全ての権利を失ったんだ」キムさんはBusiness Insiderに語った。「文字通り、動物のように扱われた。床を這って移動しなくてはならなかった」

キムさんは20人の脱北者とともに監房へ入れられた。トイレは部屋の角に1つだけ、横になれるスペースはなかった。昼も夜も、脱北者たちは地べたに座っていた。

「それがわたしたち罪人への罰だった。どうしてわたしたちが罪人なのか、わたしには分からない」キムさんは言う。

彼らは所長室へ行くよう命じられたときも、手と足で廊下を這って移動することを強制された。床を這う彼らを、収容所の職員は手袋や棒で殴ったと言う。

現在、10万人超の北朝鮮国民が収容所、政治犯収容所、強制労働所に拘束されていると見られ、彼らは激しい労働や拷問、飢えに耐えている。

キムさんへの取材は、アメリカのトランプ大統領と、自国民の命を奪ったと非難されている北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長の米朝首脳会談の時期に行ったものだ。だが、金正恩氏による人権侵害について尋ねられたトランプ大統領は、その独裁者の行動を擁護するかのようだった。

 

米朝首脳会談

歴史的な米朝首脳会談で、トランプ大統領と握手を交わす金正恩委員長(2018年6月12日、シンガポール)。

Kevin Lim/The Strait Times/Handout/Getty

初めて捕まったとき、キムさんは運が良かった。

北朝鮮最大の再教育施設の1つが故郷の茂山に近い全巨里にあったが、彼はさらに南方の施設へと送られた。なぜなら、誰もキムさんを知らなかったからだ —— 当時はインターネットや電話サービスがなかったため、彼は年齢を詐称することができた。そこで、自分はまだ15歳で母親を探すために中国にいた、と当局に話したのだった。

おかげでキムさんは、処遇のひどい強制労働所や政治犯収容所ではなく、孤児向けの医療施設へ連れて行かれた。施設に到着すると、すぐにまた脱出し、中国北東部の吉林省和竜市の近くで農場労働者の仕事を得た。

「毎日、トウモロコシや豆、ジャガイモを栽培したり、山で木を伐採した」キムさんは語った。「飢えていなかっただけ、暮らしはましだった。おなかいっぱい食べることができたし、わたしにとっては十分だった……脱北した当時は、飢えていたからね」

2度目に捕まったのは、中国で母親を探しに友人を訪ねたときのことだ。隣人が再び警察に通報したのだ。2度目の強制送還は、1度目のような運には恵まれなかった。キムさんは故郷の近くの強制収容所に連行されたのだ。そこから強制労働所へ送られ、何カ月も山で伐採作業に従事した。

ある日、キムさんは山のふもとにいる自分以外、全ての労働者が頂上で作業中であることに気付き、脱走。再び中国に入ろうと、北に向かう列車が見つかるまで全速力で逃げた。

その後しばらくして、キムさんは中国でまた捕まった。3度目の逮捕によって、一度入ったら出ることのできない最悪の場所、政治犯収容所へ送られた。そこで中国への国外脱出を手助けするブローカーを通じて当局に賄賂を渡し、4度目の脱出を果たした。

6年後、母親と再会し韓国へ亡命

ソウル

韓国、ソウル。

Chung Sung-Jun/Getty Images

中国で、キムさんはブローカーに借金を返すため仕事に戻った。ある日、同郷の北朝鮮の女性から電話があり、母親を訪ねるよう言われた。母親はがんに侵され、死の間際にあったのだ。長い年月を経て、親子は久々に顔を合わせた。

「母の家のドアを開けたとき、信じられないほど変わり果てた母の姿に、わたしは硬直して何も言えませんでした」キムさんは言う。「痩せこけて、全身が三角のように見えました。わたしはたまらず外に出て長い間泣き、また部屋に戻って、母を抱きしめて一緒に泣きました」

数日後、母親の友人が、ラオスとカンボジアを経由して韓国に亡命する気はないかと母親に尋ねた。あるブローカーが脱北者の一団を連れ出すのに、まだ1人分の空きがあったのだ。

自力で歩くことのできない母親はキムさんに、韓国へ行って教育を受けるよう説得した。落ち着いたら自分を呼び寄せ、助けを必要とする人の役に立つこともできると、母親は言った。キムさんは行くことを決めた。

脱北者の一団が国境を越えてラオスに入る前日の夜、彼は電話で母親が亡くなったとの知らせを聞いた。電話口の男性は、葬儀のために戻るべきだと言った。

「電話を切った後、わたしは何も言えず、ただ夜通し泣きました。本当に、心の底から戻りたかったけれど、戻ったところでわたしが母のためにできることは何もないと思ったんです」キムさんは語った。「わたしの決断に母は賛成してくれると信じて、韓国行きを決めました」

最初の脱出から6年が経った2007年、キムさんはついに韓国への亡命を果たした。

 

温かい食事が欲しかった…… 4度目の挑戦で韓国への亡命を果たした、ある脱北者の実体験 | Business Insider Japan

 

3円を稼ぐために10キロ先までリヤカーを引く…脱北YouTuberが振り返る"リアル北朝鮮"の極貧生活

北朝鮮の一般庶民の暮らしぶりはどのようなものなのか。北朝鮮の地方に生まれ、2008年に23歳で脱北したYouTuberのキム・ヨセフさんは「地方に暮らす国民は貧困にあえいでいた。1日3円を稼ぐために学校にも通わず、ひたすら薬草や落ちた豆をかき集めた」という――。

※本稿は、キム・ヨセフ『僕は「脱北YouTuber」』(光文社)の一部を再編集したものです。

北朝鮮。田舎

 

食べ物を調達してきてくれた弟との今生の別れ

10歳くらいの頃に母が亡くなったあと、父もどこかに消えてしまった。のちほど祖父から聞いた話では、父は食べ物を求めて親戚の家を転々としていたが、そのうち親戚も父を囲う余裕がなくなったため、中国に出稼ぎに行ったのだという。中国から父が連絡を寄こしたので判明したが、父が姿を消した当時は、親戚の誰もが父はどこかで飢死したのだと思っていた。

弟との路上生活ののち、僕は祖父母と叔父たちが住んでいる地域に身を寄せることになった。

しかし、当時の祖父母は自分たちの食べ物さえ得られない状況で、僕たち兄弟を育てる余裕などなかった。食料配給があるときですら、周りに住んでいた人々や叔父たちから食料をもらって生活していたほどだった。

路上生活をしていたとき、盗みがどうしてもできなかった僕は、弟が奪ってきたものを食べていた。本来なら兄である僕が弟を養うべきなのに、実際には弟に頼りっきりで、まるでお荷物だった。祖父母が、「兄弟どちらか1人ならなんとか世話ができる」と手をさしのべてくれたときも、弟は「僕は1人でも生きられるから、兄ちゃんが行きなよ」と言った。

正月が過ぎたばかりの寒い日だった。

僕たち兄弟は「春になれば、畑に行ける。なんとか兄弟2人分の食料も手に入れられるだろう」と考え、3月にまた会おうと約束し、駅前で別れた。

だが、僕は何が何でも彼と一緒にいるべきだった。それが、最後の会話になってしまったから。弟と再び会う日は訪れなかったのだ。

脱北後に中国で父と再会したとき、そこに弟を連れてこられなかったことが本当に辛く、情けなかった。

7人家族が、たった2人だけになってしまったのだ。

僕は息子として、兄としての責任を果たせなかった自分を責め、それから毎日横になっては、弟を思い出して泣いた。

凍える冬の駅の下、身を寄せ合って夜を越した日々。弟は精神的なストレスのせいか、もう赤ん坊ではないのによくおねしょをしていた。夜に漏らした尿でズボンが凍ってしまうので、起きてから体温で溶かし、動きまわることでなんとか乾かしていた。僕はそれをどうにもできず、ただ隣で見ているしかなかった。その光景が鮮明に思い出される。

今でも、彼を想わない日はただの1日もない。

朝5時から16時間の薬草摘みで日銭を稼ぐ

祖父母のもとに身を寄せてからは、日銭を得るために働く日々が続いた。小学校卒業後に6年間通うはずの高等中学校には通えなかった。

生きるために必要な額は、最低でも1日30ウォン(約3円)。毎朝、山で薬草を採ったり、薪を集めたり、秋は祖母と一緒に畑に落ちているとうもろこしや豆を集めることもした。1998年頃の一時期は、中国から買い付けた薬草が高値で売れることもあり、助かった。

薬草採りは僕と同じく、学校に行けなかった子と一緒に朝の5時頃に出発し、山に入って2~3時間は歩く。そうまでしないと、採れる場所がないからだ。そして薬草をリュックに詰めて夜の8時、9時に戻る。

やがて数カ月後には1500ウォン(約150円)ほどが貯まったが、これは結構な金額だった。それまで服を買ったことがなく、ほとんど同い歳のいとこや叔父たちのおさがりをもらっていた僕は、当時流行っていた、金正日と同じズボンが欲しかった。だが冬を十分に越すための石炭2tの値段が約1400ウォン(約140円)。ズボンは500ウォン(約50円)だったので、諦めた。

家から10kmくらい離れた炭鉱までリヤカーを引いていき、100kg当たり50ウォン(約5円)で仕入れた炭を100ウォン(約10円)で売ったりもした。丸く固めて穴が開いた練炭は暖を取る用、石の形をしたものは外での炊事用と用途が分かれていた。

裏庭で手引きカート
写真=iStock.com/aimintang
※写真はイメージです

また、北朝鮮ではウサギや豚を飼うことが多いので、餌になる草が売れる。だが、それらを20kg売っても、とうもろこし1、2kg分しか得られない。とうもろこしと葉物を半分ずつ入れてお粥のようにして食べるが、葉物が多いとすぐに腹が減ってしまう。稼ぎによって、とうもろこしの量が増えたり減ったりした。

 

「なぜこんな過酷な暮らしを」と疑問に思う余裕すらなかった

そんな毎日が何年も、雨の日も雪の日も休みなく続いた。天気が悪い日は薬草採りは休みたかったが、祖母にどやされるので仕方なく体を引きずった。

今のように週休2日という概念はなく、延々と続く重労働。夜に帰って友達と会いたくても、明日のためには早く寝ないといけない。

楽しみといえば、明日は美味しいものを腹いっぱい食べられるだろうか、少しは質が良くなったり、量が増えたりするだろうかと思いを馳せることだった。

とにかく食うためだけに必死だったので、どんなにスローガンを叫ばれ扇動されても、政治のことを考える余裕はなかった。

北朝鮮に生まれると、大多数の国民は海外の情報に触れることができない。よって、自国の矛盾に気づくこともない。毎日テレビで「我が国は地上の楽園」と言われることを不満に思う人が多いならば、今頃北朝鮮という国はなくなっているだろう。

僕は、なぜ自分がこんな暮らしをしなくてはいけないのかと疑問に思うことすらできなかったのだ。

 

3円を稼ぐために10キロ先までリヤカーを引く…脱北YouTuberが振り返る"リアル北朝鮮"の極貧生活 数カ月働いても50円の金正日モデルのズボンすら買えなかった | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)