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(漫画)エベレスト大量遭難事故の真相。200体にのぼる遺体が放置される【エベレスト登頂ビジネスの闇】
1996年のエベレスト大量遭難
(1996ねんのエベレストたいりょうそうなん、英称;1996 Mount Everest disaster )
は、1996年5月に起きたエベレスト登山史上有数の遭難事故の一つ。
5月10日に起きた嵐の影響で8人の登山家が死亡し、その前後も含めると春の登山シーズン中に12人が死亡した。
2014年4月18日に雪崩のため16人が死亡する事故 (en:2014 Mount Everest ice avalanche) が発生するまでは、エベレスト登山史上最悪の遭難事故とされていた。
1953年の初登頂と、それに続くバリエーションルート(より困難な攻略)への冒険家達や国家的プロジェクトによる挑戦が一巡すると、エベレストは経験を積んだ登山家の攻略対象ではなくなり商業化が進むことになった。
特に1985年に実業家ディック・バスがガイドによる全面サポートを受けた登頂に成功し、その過程を記した「セブン・サミット」を出版すると富豪や高所得者による七大陸最高峰の人気が沸騰。
1990年代半ばには公募隊による登山が主流となり、アマチュア登山家であっても必要な費用を負担すれば容易にエベレスト登山に参加できるようになった。
あらかじめシェルパやガイドによるルート工作や荷揚げが行われるため、本来なら必要であった登攀技術や経験を持たないまま入山する登山者が現れるとともに、ルートが狭い場所においては登山家が渋滞し、長時間待つようなことも増えた。
遭難に至る経緯
1996年、ニュージーランドのアドベンチャー・コンサルタンツ社は、1人65,000ドルでエベレスト営業公募隊を募集した。
探検家のロブ・ホールが引率して、世界中のアマチュア登山家と共に5月10日に登頂を果たすというツアーで、いわゆる商業登山隊(ガイド3名・顧客9名)であった。日本人の難波康子も参加した。
他にもスコット・フィッシャー (Scott Fischer ) が引率するマウンテン・マッドネス社公募隊も行動を共にすることになった。
参加者の中には、本来登山には必要ない大量の資材を持ち込んだり、不適切な性交渉を行う参加者がおり、ガイドやシェルパの負担は小さくなかった。
荷揚げの時点でマウンテン・マッドネス社の主力シェルパ、ナワン・トプチェが高所性肺水腫によって重体となり、この処理にシェルパ頭のロブサンが当たったため負担はさらに増加した。
スコット・フィッシャーの隊には、サブガイドとしてロシア人のアナトリ・ブクレーエフ (Anatoli Boukreev) が初参加した。
ブクレーエフはガイドとして十分な仕事をせず、隊長のスコット・フィッシャー自ら体調不良者をベースキャンプに送り返す等の労働に従事することになり、登頂前すでにスコット・フィッシャーは疲労困憊となっていた。
また、顧客の一人レーネ・ギャメルガードが数度にわたり無酸素登頂を要請したが、これを撥ねつけたため険悪な空気が醸成されていた。
技術、体力ともに稚拙なメンバーの牽引に人手を割かれたことで予定していた山頂までのルート工作が完成しておらず、山頂に向かった人間は予定外の待機や作業によって酸素、体力とも大幅に消耗していた。
また、渋滞を避けるために登頂日を分ける事前の取り決めに非協力的な態度を取った南アフリカ隊や、一旦合意しておきながら翻意する台湾隊もおり混乱が始まっていた。
難波は登山技術と英会話能力に幾分か問題があったようだが、5月10日にサウスコルルートからアタックし登頂に成功した。
これによって同じルートで登頂に成功した田部井淳子に続き、難波は日本人女性で2人目のエベレスト登頂者、及び七大陸最高峰の登頂者となった。
しかし、登頂を果たした時間は、引き返す約束の14時を1時間過ぎた15時であった。
引き返す約束の14時を過ぎて、ロブ・ホールとともに16時30分に登頂したメンバーも2名いたが、2名とも遭難死している。
頂上近くはルートが限られ、他の台湾の公募隊なども加わり、絶壁を越えるような難所では渋滞が発生し時間を浪費した。
隊長のスコット・フィッシャーは自己責任を強調し、14時というリミットには寛容であった。
一方、ロブ・ホールは頂上が前に見えていても14時になったら引き返すように参加者に強く指導していた。