信じるか信じないかはあなた次第
ブラックエンペラーは、1960年代末頃から1992年にかけて存在した日本の暴走族。本間優二、蛯澤賢治、イカンガー岩崎(岩崎隆史)、金崎浩之、宇梶剛士、松嶋クロスなどが所属していた。
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- 喧嘩最強だった氷室京介
- 布袋寅泰は学生時代、怖くて避けていた!
- 週刊誌フライデーに『前科がある』と掲載された
- ブラックエンペラー
【氷室京介・宇梶剛士】関東連合を作ったブラックエンペラーにいた最強の芸能人を漫画にしてみた(マンガで分かる)
氷室京介の若い頃の喧嘩最強列伝とは?ヤンキー時代がヤバい!
喧嘩最強だった氷室京介
こちらが氷室さんの若い頃の写真です。
なんだかちょっとやばくて怖そうな感じですね。
地元でも、喧嘩が強い事で知れ渡っていたようです。
そんなやんちゃな人物が、
後に伝説的なミュージシャンになるとは、誰も思っていなかったでしょう。布袋寅泰は学生時代、怖くて避けていた!
同じ地元で、バンドのメンバーだった布袋寅泰は、当時周りの人は氷室京介を避けて通っていた、
そして昔の氷室京介は、ただただ怖いイメージだったと語っています。
高校卒業後、氷室京介に電話で呼び出された時は、殴られると思ったそうです。
勿論殴る為に呼び出された訳ではなかったのですが、それ程怖かったという事ですね。週刊誌フライデーに『前科がある』と掲載された
何度も警察に捕まった過去がある事から、ある日週刊誌に、
前科があって殺人を犯した事があるという記事を書かれてしまいました。
勿論これは嘘の記事だったのですが、氷室京介はこれを逆手にとってネタにし、
ライブのMCで「前科がある」と自己紹介していました。ブラックエンペラー
1960年末頃から1992年にかけて活動していた暴走族です。
1970年代に、マッドスペシャル、上町小次郎、
鬼面党と一緒に、関東連合という暴走族の連合体を作りました。
1970年末には2000人以上のメンバーがいました。
後に総本部を国立市から新宿へ移しました。
神奈川県、茨城県、静岡県、愛知県にも支部がありました。
世田谷区下北沢が1980年代には総本部でしたが、
1992年25代目総長を最後に、総本部は解散しました。
「BOØWY(ボーイ)」 の由来
「BOØWY(ボーイ)」 の由来についてまとめたエッセイです。由来だけ手っ取り早く知りたい人は下のほうまで飛ばして読んでね。
BOØWYの由来
ボーカルの氷室さんは、BOØWY結成以前は、レコード会社の意向によりスピニッヂ・パワーというバンドののボーカルとしてデビューしました。
が、音楽性の違いから脱退。
同時に付き合っていた彼女とも別れてしまい、音楽の道を諦め帰郷する決意をしました。
最後のつもりで立ち寄った日比谷野外音楽堂でのRCサクセションのライブ。
そこで受けた衝撃の勢いそのままに一念発起したのです。
群馬時代のライバルであった布袋さんのもとへ連絡を入れます。
六本木アマンドの前で再会。
同郷のライバル同士ではありましたが当時の2人の間にそれほど面識はなかったので布袋さんは、てっきり群馬から東京に出てきてチャラチャラした生活をしている自分を知った氷室さんが殴りにきたのではないかと思ったといいます。再会してみると群馬時代は硬派だった氷室の風貌がニューウェイブ風に変化していたので驚いたというのが第一印象。
そこでバンドへの誘いを受けるわけですが、殴られると思って呼び出された布袋さん。
「地元でも有名な不良少年の氷室さんが怖くて誘いを断りきれなかった」 と後に半分ネタとして語っているそうです。そうして結成されたわけですが、その名前の由来は・・・
関係者の誰かが「男だけだからボーイってのはどう?」で始まったと言います。
「デビットボーイもいるし、いいかもね」 同調するメンバー。
ちなみに氷室さんは、どうでもいいから他人にお任せだったよう。。
「ボーイ」と読めるアルファベットが紙に何種類か書き出されました。
そこに「Ø」を入れたかった布袋さんの意見が取り入れられ、「BOØWY」に決定したとのことです。ところが!
当時ありがちな「事務所の意向」が働いたのか・・・
所属事務所ビーイングのスタッフにより「暴威」という印刷が上がってきたのでした。
デビューの時には「BOØWY」となり、ことなきを得ましたが、さすがにその名前ではブレイクしなかった気がするのは私だけでしょうか?
他にも候補として「群馬暴威」と言うものもあったのだそうです。
更にダサい感じがしますがジャニーズならありそうな気も・・・エピソードいっぱい
氷室さんはバンドを結成した当初は、英会話教材のセールスマンをしていたらしい。
意外にも営業成績も優秀だったといいます。人は見かけによらない?
車の誘導のアルバイトでは車をぶつけ、パチンコ屋では台を壊し、ゲームセンターでは出勤3日目には先輩を見切り一日中ゲームをしていたとか。
これはそれっぽいですね。
氷室さんの芸名の由来は、漫画「ワル」の主人公からで初期は「狂介」でしたが京都の占い師に「“狂”という文字は絶対に使ってはいけません」と言われ、現在の「京介」に改名。
その後売れたため、もう占いをしないと決めたのだとか。
氷室さんはまったく酒が飲めず、専らコーラか飲む時でもカルーア・ミルク。
本当でしょうか?一方布袋さんは酒に強いため、ライブハウス時代に他バンドの打ち上げの席でBOØWYを宣伝する広報係を担当していたらしい。
体の大きさそのままにラッパ飲みしそうですよね。
布袋さんは喫茶店のアルバイトの面接に行った際「背が高すぎる」という理由だけで不採用になったことがあるとか。
本当にそんなことあるんですね。
夜中に酒屋の脇に積んであるビンを頂戴し、翌日何食わぬ顔でそれを売りに行って小銭を稼いでたという武勇伝も。
などなど・・・最近のバンドマンにはありがちな話ばかりかもしれませんが時はバンドブームの走りであった時代。
そういった全てが我々の世代に新鮮に映ったのではないでしょうか。
全ての不良少年の憧れになっていったのでしょう。
宇梶剛士 インタビュー 私のターニングポイント
- 宇梶 剛士(うかじ・たかし)
- 1962年8月15日、東京都生まれ。
広島県安芸郡府中町で育つ。日本最大の暴走族の総長を経て俳優修業をはじめる。錦野旦、菅原文太らの付き人をつとめた後、映画、舞台などで活躍。2007年、金井良信・平野貴大らと劇団PATHOS PACKを結成。旺盛に活動を続けている。僕の場合、少年院の中で「チャップリン自伝」を読んで俳優を志すようになった、そのことが人生最大の転機だったと言えるでしょう。ただ、転機はその後も何度もやってきた。人生は面白いですね。
まず、僕の舞台デビューのきっかけは、菅原のオヤジさん(菅原文太)のところで付き人をやっていた時代、美輪明宏さんと出会ったことがきっかけでした。『青森県のせむし男』というお芝居だったんですが、当時の僕は、映画で小さな役を演じた程度で右も左もわからない状態です。いただいた役は、美輪さん扮する大正マツという主人公の屋敷に飼われている"美少年"という役。すいません、自分で"美少年"なんていうと変な感じですが、いちおう年齢だけは"少年"を名乗るくらいの資格はありましたのでお許しください(笑)。
全身にラメ入りのオイルを塗りたくり、下半身に女物のような下着一枚を身につけた状態が、唯一のステージ衣装。とにかく無我夢中でしたし、役者として何をすべきかなんてことなど考えることもできませんでした。だけど、意外なことにその初舞台では、まったく緊張せずに公演を終えることができたんです。「お客さんの前に立つことだけはできるんだな」と思えたということは、大きな収穫でしたね。
美輪さんには次の年の『双頭の鷲』という公演でも起用していただいたんですが、そのころの僕は、いろんな演劇体験をしたくて、どこかにチャンスが転がっていないか、ギラギラとあたりを探っていました。そんな僕の気持ちを察したのか、美輪さんが公演を観にきた渡辺えりさんを紹介してくださったんです。
「この子、まだ演技が固いから、鍛えてあげてよ」、確かそんなことで、えりさんは嫌々引き受けた感じだったと思うんですけどね。
今振り返ってみると恥ずかしいことだらけですが、当時の僕は「演技が固い」どころか、「心が固い」というような状態でした。
俳優になるという夢はあったけど、親や学校、それから社会という大きな存在に対する反発心はそう簡単に消えるものではなくて、自分以外の存在に対する不信感を全身から発していたように思います。
そんな状態では、ツッパリのアンちゃんの役だって演じられません。まず、それをやるには、演じる対象となる人物の心の動き、体の動きを客観的に見つめ、分析し、かみ砕いた上で表現しなければなりませんからね。
だから、美輪さんから「鍛えてあげてよ」と言われたえりさんは、頭を抱えていたんじゃないかと思います。ただ、僕にとっては、すべてが貴重な体験でした。単なる客演の俳優としてではなく、劇団員と同じように接してくれましたから。大道具を運ぶトラックの運転から、仕込みにバラシ、その他さまざまな雑用をやりましたけど、ひとつの公演をゼロから作ることの喜びを教えてもらいましたからね。
えりさんという人はとても愛情深い人で、ざっくばらんに話をしてもらえるときもあるんですが、稽古場ではとても厳しい表情を見ることもありました。とても印象深いのは、ある日、稽古をしている途中、隅っこのほうで誰かがエンピツを一本、カリンと床に落としたんです。普段なら誰も気にしないくらいの小さな音だったと思うんですけど、その途端、その場にいたすべての人の神経がそのエンピツの音でビクッとなった。それくらいの緊張感がみなぎる稽古場でした。
そんな環境ですから、固い心のままでは参加すらできない。心の鎧を無理矢理脱がされ、ときには自分の力でそれを脱ぎ捨てたりする場面があり、役者として人間として大きく成長させられました。
その後もいく人かの座長のもとで舞台を作るという経験を積ませてもらいましたが、ひとつの劇団を抱える座長という存在は、父であり、母であり、姉であり、先輩であり、何より同志として理想を追い求める仲間であり、さまざまな場面で目標を与えてくれる存在なんですね。単に「自分より演技がうまい」とか「いい台本を書ける」とか、そういうことはひとつの要素に過ぎなくて、大きな人間力みたいなものに惹かれていくんだと思います。
それだけに、まさか自分が座長になるなんてことはおこがましいことだと思っていました。
そんなある日、唐十郎さんのお芝居に行く機会があって、そこで金井良信という男と出会うわけです。ひと目見て「この男はカタギじゃない」と感じさせる風貌もさることながら、俳優として表現できることが僕には絶対にできないだろうなというものを彼は持っていました。何より、「この男と一緒に何かをやっていくんだろうな」という予感がありました。
それから、たくさんの「仲間」が集まってきて、PATHOS PACKを旗揚げするまでになりました。「仲間」という言葉は、大人の社会ではなかなか流通しない言葉だと思うんですけど、劇団というのはお互いを「仲間」と呼べなければ成立しない集団でもあります。人間というのは、生きれば生きるほど、自分ひとりの力でできることの限界に気づかされることが多いと思うんですが、そうした「仲間」が集まることによって自分の力は最大限に生かされることがあるんですよね。だから、そうした「仲間」たちの胸を借りるつもりで、できる限りの力を出し切りたいというのが今の座長としての僕の気持ちです。これからは、劇団という形態でなければ表現できないことを追求するつもりで、すべての力を出し切りたいですね。