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信じるか信じないかはあなた次第

 

 

 

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【まずこれ読んで】新城島(パナリ島)ってこんな島!新城島基本情報〜滞在記を交えてお伝えします〜

人魚伝説進入禁止の御嶽決して見てはいけない秘祭定期船のない秘境・・・そんな気になるワードが並ぶ新城島(あらぐすくしま)別名「パナリ島」と呼ばれるこの島の基本情報をお伝えします!

 

新城島(パナリ島)の基本情報

まずは新城島の場所・行き方・規模感などの基本情報です。

船が到着する上地島の桟橋

新城島の場所とアクセス方法


新城島へは石垣島から船に乗って行く方法一つです。飛行機はありません。

新城島までのルート

全国各地→石垣島→石垣島離島ターミナル ・・・船・・・ →新城島(パナリ島)

【船の所要時間】
約70分(帰りの西表島大原港経由の場合)
※定期船はありません

新城島は定期船がありません。そのため、新城島に行くには新城島へのツアーを催行しているツアー会社を利用することになります。個人で新城島に上陸することはできません

ツアーで上陸する方法のみ

新城島には、ツアーを利用すれば上陸することはできます。「新城島 ツアー」などと検索すれば数件ヒットするのでいずれかを利用すると良いでしょう。石垣島や西表島などから半日もしくは1日ツアーが出ています。

石垣島を朝9:00〜9:30頃出発し、17:00過ぎに石垣島に帰ってくる日帰りツアーが一般的です。ツアーの内容は島内散策とシュノーケリングがセットで、幻の島と呼ばれるバラス島に上陸するものがついたものなどもあります。

新城島の概要・規模・人口

新城島、別名パナリ島は、上地島と下地島という二つの島々を総称した名称です。パナリとは「離れ」という意味。下地島には広大な牧場があり管理人の住人が1人いるのみで、わずかに行われている下地島へのツアーに参加すれば上陸することはできますが、なかなかハードルが高い島です。
そのため、この記事での「新城島(パナリ島)」は全て上地島のことです。下の写真の右側、細長い島が上地島です。

右の細長い島が上地島、左の丸い島が下地島。(出典:写真AC)

新城島の人口は10名です(2019年の住民基本台帳より)。しかし島民のほとんどが石垣島や西表島など周辺の離島に住居を構えています。戦前は400名程度の住人がおり、1975年までは小学校もありましたが、過疎化が進み現在では定住している人はほとんどいません

しかし、無人島のように荒れているかといえばそうではなく、きれいに整備された集落が広がっています。この規模なので当然ですが、商店は一軒もありません自動販売機もありません。ちなみにポストはあり、このポストは住民が定期的に回収して郵送されるそうです。

集会所の屋上から見た集落の様子

上地島小中学校跡地

集落にポツンとあるポスト

新城島が秘島と呼ばれる理由

秘島・秘祭・人魚伝説・・・新城島の気になるワードを解説します。

新城島の人魚伝説

人魚とはジュゴンのことです。かつて八重山諸島周辺海域にはジュゴンが生息しており、新城島で盛んに捕獲されていました。そのジュゴンの肉や皮は琉球王朝に人頭税の一種として献上されていました。なんでも、不老不死や媚薬になると信じられていたそう。残された頭蓋骨は新城島内の御嶽(※)に祀られています。
その御嶽は「人魚神社」「東(あーり)御嶽」と呼ばれていますが、島民以外の立ち入りはおろか、写真撮影も禁止されています。

新城島内にはそのような御嶽がいくつかあり、「神の道」のため通ってはならない道も存在しているので、軽率な気持ちで島内を歩くのは厳禁です。勝手に歩き回るのではなく必ずガイドの指示に従うようにしましょう。

ちなみにジュゴンは日本では沖縄が北限とされていますが、現在では数が激減し絶滅の危険が極めて高い生物となっています。
※御嶽(うたき)とは、琉球地方において神様が祀られていると崇められる聖域のこと。

決して見るべからず。新城島の秘祭

新城島が謎多き島と呼ばれる最大の理由は「秘祭」です。それは’’日本民俗学最大のタブー’’といわれることもある祭りで、写真や音声はもちろん、その内容を外に漏らすことさえ禁じられていると言います。

そのため確たる情報はどこにもないのすが、ざっくりというと「アカマタ・クロマタ」という形相凄まじい身長2mほどの二体の神様が、毎年旧暦の6月(現在の7月中旬)に行われる豊年祭で豊作を祈願するというもの。

外部の人が見ることは固く禁じられていて、かつて強引に取材に潜り込んだ記者が島民から袋叩きにあったとか帰ってこられなかったという話がありますが、これは事実かどうか分かりません。都市伝説のようなものです。

この豊年祭の時に、前述の人魚神社何かが行われているそうなのですが、祭りの時でさえ島民の一部しか入ることが許されず、門外不出の祭事となっています。一説によるとアカマタ・クロマタの出発点がこの人魚神社ではないかと言われているのです。

人魚神社の鳥居より先に足を踏み入れた者は原因不明の体調不良に襲われたり、不審死を遂げたりするなどという話もありますが、真偽不明です。
いずれにせよ、新城島の島民にとって人魚神社および御嶽は聖域なので、勝手に足を踏み入れるべきではありません

ちなみに豊年祭の時には島民関係者300名が帰省するというのだから驚きです。これが事実だとしても、外に出る話がここまで少ないのは驚くべきこと。
以上が新城島が秘島と呼ばれるざっくりとした理由でした。

【実体験】突然の「立ち入り禁止札」にビビる

私はツアーの方に許可をいただいて、集落内を一人で散策しました。集落内は他の離島と大きく変わらず石垣の小道、琉球家屋とのんびりとした雰囲気で、気持ちの良い散歩時間でした。誰が見ても「道」とわかる道を歩いていたのですが、左手に現れた小道の先を見て足が止まります。紐でぶら下げられた「立ち入り禁止」の札と、その先の鬱蒼とした道。明らかに今まで歩いてきた道とは違う異様な雰囲気です。

写真は撮っていませんが、想像するにこの先が御嶽につながっているのだろうなと思いました。同様の道をもう一ヶ所発見し、私は静かに休憩所に戻りました。

新城島の見どころ

そんな謎多き新城島(パナリ島)ですが、とても美しい海に囲まれた風光明媚な島です。一切観光地化はされていませんが、その中でも見ておくべきポイントをご紹介します!

クイヌパナ

クイヌパナに上る階段

“クイ”とは越す、”パナ”とは端を意味するそうで、「端の高台」を意味するクイヌパナ。島を守るためのかつての見晴台です。港の近くではありますが、一度集落の中に入り、森の中を抜けていきます。景勝地とはいえここに行く途中にはイールウガンという御嶽入り口には石碑もあるので、なんとなく厳かな雰囲気

クイヌパナへ向かう道

でも見晴台から見える景色は最高です。岩を積み上げられてできた17段の階段を上と、港が一望できます。隣の下地島のほか、晴れた日には西表島までみ見渡すことができます。
ちなみにクイヌパナとは八重山の方言で「恋の花」という意味もあるそう。散々秘祭とか御嶽とか言っておきながら、いきなりロマンチックな感じになりましたね。

クイヌパナからの眺め。向こうに見える島は西表島

下りるのも慎重に

北の浜

北の浜は新城島のメインビーチです。港や集落から徒歩5分程度の場所にあります。このビーチへの道中もまた、森。

北の浜

見落としそうな北の浜への入り口

こちらはビーチへ続く森への入り口。教えてもらわないと見落としてしまいそうなさりげなさです。しばらく歩くと森を抜け、一気に開けたビーチに到着です。
北の浜は広々としたビーチです。半島のように大きく突き出た岩山に挟まれたビーチで、とてもプライベートビーチ感があります。ツアーで連れて行ってもらえるビーチも基本的にはここ。ここで干潮を避けてシュノーケリングをする時間が設けられると思います。

実はこのビーチに向かう途中にも鳥居がある御嶽がありました。ツアーに来ていた方の一人が写真を撮ろうとすると「撮らないでください」とガイドさんに強く止められていました。新城島の中ではカメラを向けるものを考えなければなりません

恋路ヶ浜

恋路ヶ浜

恋路ヶ浜」というまたロマンチックな名前のビーチです。こちらは北の浜よりも少しコンパクトなビーチで、こちらの方がプライベートビーチ感があります。まだ人口が数百人いた昔はここが恋人たちのデートスポットだったというような話がありますが、どうなんでしょうか。ここはお昼寝したいような気持ち良さがあるビーチです。

下地島対岸のビーチ

上地島の端のビーチ。向こうに見えるのが下地島

こちらはビーチの名前がわからないのですが、400m対岸に下地島を望めるビーチです。ここに行くには集落からかなり細い藪道を15分程度歩かなければなりません

上地島の端のビーチに向かう道

GoogleMapを航空写真モードにして見ればわかると思いますが、集落から南西方面に伸びた白く細い道があるのが確認できます。途中でヘリポートとヤギに会った以外は何もなく、ただひたすらに細い道です。景色の変わらない道を15分黙って歩くのは結構長い時間ですが、道を抜けると気持ちの良いビーチに抜けることができました。


行きたい場合は必ずガイドさんに確認し、許可が出た時だけ行くようにしてください。

許可された人しか立ち入れない新城島

誰でも新城島の集落内に立ち入ることができるわけではありません。ツアー会社によっては港周辺のビーチやスポットのみの案内となります。《パナリ島観光》は、島民出身の方が運営しているため、集落の中まで入ることができ、休憩所も利用できます。

休憩所、パナリ島観光

過去ツアー参加者のみ宿泊可能

実はここは宿泊することも可能。新城島で宿泊できる場所はここ一ヶ所のみです。しかし、《パナリ島観光》のツアーに参加したことがある人のみ受け付けているので、誰でも泊まれるわけではありません。

謎多いけど沖縄らしい穏やかな島

秘祭や秘島、神の道など様々な伝説や言い伝え、噂が多い新城島(パナリ島)ではありますが、島自体は穏やかで居心地の良い島です。集落の道は昔ながらの石垣の道で、沖縄の離島らしさ満点。集落を散策している時には、窓全開で寝転びながらテレビを見るおじいさん(そのそばには猫)の姿も見え、とても平和な島だなと感じました。

伝説や言い伝えは本当のこともあるし、島民にとって神聖な場所や大切な場所に立ち入らないようにするのは当然のことですが、怖すぎる噂は外部の人間が勝手に作り出したものもあるのだろうなということも感じました。

徹底的に外部から距離を置くことで島の歴史や平和を守っているのだと思います。そのためにはこのままも「謎多き新城島(パナリ島)」であり続けるのが良いのだろうと感じました。

沖縄らしさ満点の小道

島にお邪魔している気持ちを忘れずに、新城島を楽しみましょう!

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ウトロ地区の現在は?在日朝鮮人が住んでいて治安が悪いって本当?

ウトロ地区は戦前から続いている京都府宇治市伊勢田町51番地に所在する地区であり、戦後も在日朝鮮人がすみ続けています。ウトロ地区はしばしば差別的な言葉の使われ方していますが、果たしてどのような地区になのでしょうか。また現在どのような形で残っているのでしょうか。

 

ウトロ地区とは?在日朝鮮人が住んでいて危険?

皆さんはウトロ地区を知っているでしょうか。

ウトロ地区は京都府宇治市伊勢田町51番地に所在する地域の名称であり、昔から在日朝鮮人が住んでいるというのが特徴です。

さて、そんなウトロ地区の歴史や実情とはどういったものなのか今回はご紹介します。

また、北海道にあるウトロと関係があるのかもご紹介します。人気タレントの安田美沙子さんの父親がウトロ地区出身との噂もありますが真相はどうなのでしょうか?

ウトロ地区とは?

地元の人でなければ、あまりウトロ地区という名称は耳慣れないかもしれません。そこでまず、ウトロ地区というのがどういったエリアなのかについて迫っていきます。最初にその実態の一口に入ってみましょう。

『そういうことか』と少しだけでもウトロ地区がどういったところなのかがわかるでしょう。

戦時中の労働者が暮らす地区

ウトロ地区というのは、京都府宇治市伊勢田町51番地にある地域です。自衛隊・大久保駐屯地の北側にあるのが特徴でもあります。ウトロ地区という名称は通称となっていて、正式名称ではありません。

 

宇土口(うとぐち)が正しい名称ですが、朝鮮人が間違えて読んだり書いていたことで『ウトロ』へと変わっていったと考えられています。そうしたことから、北海道にある『ウトロ』とは無関係となっているのです。このウトロという名称は、京都市には正式には認められていません。

 

要するに、『ウトロ地区』というのは通称という形になります。第二次世界大戦の前に、航空機工場で働く人達の宿泊場があり、沢山の朝鮮からの出稼ぎ労働者がいたのです。そのエリアがウトロ地区となります。

在日朝鮮人が住んでいる

第二次世界大戦の最中の1942年に、京都飛行場と併設となる飛行機工場の建設が決まりました。工事を担当する2000名ほどのうち、1300名ほどが朝鮮人であり労働者とその家族が暮らしていた宿泊施設が、今のウトロ地区の起源です。

昔、ウトロ地区の住民はこの地に住むために、自分達は1944年9月から1945年3月までの期間に出稼ぎへとやってきた朝鮮人労働者とその子孫なので、ウトロ地区に住む権利を原因である企業の日産が保証をするべきだと主張していました。

地主企業である西日本殖産との法廷闘争と同じ時期に、日本政府や日産を相手にして闘争をしていたのです。ところが今では、ウトロ地区の住民らが参加する『ウトロ国際対策会議』では日本国際航空工業で働いていた朝鮮人1,300人は、大体が国民徴用令もしくは国家総動員法により徴用されたわけではなく、経済面の理由や兵役を逃れるために移住してきた者達であるとしています。

戦後は大半の労働者が帰国

1945年7月にアメリカ軍により飛行場が爆破されたことで、航空機工場は生産がストップして、従業員らは職を失いました。終戦と共に飛行場の建設も止まると、従業員達がそこにずっといる法律面での事由もなく、よりGHQにより基地や付帯となる設備が接収されたのです。

多くの朝鮮人労働者は帰国したものの、GHQから受けた退去勧告や朝鮮への帰国を促す要求も拒み朝鮮人達が不法に滞在し、GHQが接収に失敗した元の宿泊施設が朝鮮人達の集落の元となっています。帰国しなかった理由は、朝鮮までの船の運賃が数か月分もの給料ほどの値段という高さであったからでした。

それか、GHQが行っていた無償の朝鮮への送還事業に含まれなかったというのもあったのです。日本には朝鮮人の集落がウトロ地区以外にも幾つもありますが、私有地を不法占拠しているということについては、他の朝鮮人集落とは事情が違うでしょう。日本国際航空工業が合併するなどして、1962年にはウトロ地区の土地所有権は日産車体に移っています。

   

ウトロ地区出身の芸能人は安田美沙子?

タレントとしてテレビで見かける機会が多い安田美沙子さん。京都出身者として有名ではありますが、ウトロ地区の出身ではないかという噂が、まことしやかに囁かれています。それはどういったことなのでしょうか。

その実態について迫っていきましょう。

ウトロ地区のある宇治市で育つ

安田美沙子さんは、1982年に母の実家である北海道札幌市で生まれました。京都府の北部にある京丹後市で小学校1年生までを過ごし、小学校2年生からはウトロ地区のある宇治市に転居しています。

 

そして、宇治市立岡屋小学校を卒業し宇治市立東宇治中学校、京都府立東宇治高等学校を卒業しました。それから摂南大学の国際言語学部を中退しています。安田美沙子さんが宇治市に住んでいたことがあることから、ウトロ出身者ではないかという噂になったのかもしれません。

 

また、噂になった理由の1つとしては彼女の持ち味である京都出身である点にカギがあります。彼女が話す京都弁がわざとらしいと言われたり、無理をして京都弁を話していると言われる点にあるのです。ただこれも単なる噂に過ぎないと言えるでしょう。

ウトロ地区出身とは断定できない

上記のように安田美沙子さんが宇治市でも生活していたことがあったために、ウトロ地区の出身ではないかという話が出ていますが、宇治市も広範囲にわたりますし安田美沙子さんがウトロ地区に住んでいたと決めつけることはできないでしょう。

それに、もしも安田美沙子さんがウトロ地区の出身なのだとしたら、出生地もウトロ地区ということになるのではないかと考えられます。また、安田美沙子さんは父親の仕事の都合により宇治市に転居してきただけとなっているのです。

よって、安田美沙子さんはウトロ地区とは関係がないと考えられる線が濃厚かもしれません。それだけでなく、ウトロ地区は朝鮮人やその子孫達の住むエリアのため、ウトロ出身なのであれば生まれも育ちもウトロ地区のはずです。安田美沙子さんは元々北海道の札幌から引っ越しているので、違う可能性が濃厚となります。

   

ウトロ地区の治安は悪いの?

ウトロ地区というと、戦後まもなくから朝鮮人やその家族が暮らしていて、現在も朝鮮人およびその子孫が住んでいます。それもあってかスラムのようなイメージを抱かれることもあるのです。

そのため、治安が悪そうと思う方もいるかもしれません。では、実際のウトロ地区は現在ではどの様になっているのでしょうか。治安が悪いのかどうかについて迫ります。

比較的安全で危険じゃない

ウトロ地区は危険であったり恐いという情報が、ネット上で流れています。外国人が不法に占拠しているというイメージがあるためか、その様な噂となるのかもしれません。街は閑散とした雰囲気が漂っていて、人がいる気配もあまり感じられないために怖さを感じる人はいるでしょう。

 

それに、色々なところに『ウトロ』と書かれていますし、ハングルの看板があったりすることから日本ではないような雰囲気もあります。それでも、実際に治安が悪いというわけではないのです。

故郷を訴える看板がある

ウトロ地区の北側に行くと、青い看板が目に入ります。上部には老若男女様々な人達の絵が描かれていて、その下には何行にもわたり縦書きで文字が書かれています。青い背景に白い文字でハングルが書かれていて、その脇にもっと濃い青でハングルの訳が日本語で書かれているというものです。

またその他には、『ウトロ町づくり基本方針』という看板があり、その隣に『オモニの歌』という看板もあります。オモニとは、韓国語で"お母さん"の意味があり、看板に書かれている内容は要するに『ここからは出ていかない。何があったとしても、ウトロは私達の故郷である』ということが書かれているのです。

とは言え、事実2000年に最高裁において立ち退き処分が下っており、不法占拠状態ではあります。看板も設置後から大分経っていると見受けられます。

   

ウトロ地区と北海道のウトロは関係がある?

ウトロと読む地域は京都だけでなく、北海道オホーツク総合振興局斜里郡斜里町にも同じくウトロと呼ばれる地域があるそうです。

このウトロは京都のウトロ地区と同じように、治安が悪かったりするのでしょうか?

北海道にあるウトロは”宇登呂”という漢字で表記され、語源はアイヌ語の「ウトゥルチクシ」であり、「その間を我々が通る所」という意味があるのだとか。

しかしこのウトロは、京都のウトロ地区とは全く関係がないそうで、厳冬期には流氷が押し寄せるため、地元の観光業者による流水ウォークのツアーが催行されるなど観光地として有名なようです。

   

現在のウトロ地区は解体されている?

朝鮮人達の不法占拠によるウトロ地区ですが、退去命令も出ていることから解体されてきています。いつまでも同じ様相ではないということです。さて、現在はどの様になっているのでしょうか。

ウトロ地区の現在のリアルについて見ていきましょう。

2016年に取り壊しが開始

2016年に、ウトロ地区では市営住宅を建設するために家屋が取り壊され始めました。2016年6月の時点では、60世帯180人ほどの住人は再開発で建設される市営住宅に住むこととなるとされたのです。

 

そして、2017年12月27日に40世帯が入居できる市営住宅の1期棟が完成しました。5階建ての鉄筋コンクリート造りであり、タイプは2DKと3DKがあるのです。その後は、残っている住宅と同じくして道路の整備が進行しています。2期棟は2019年の間に完成予定となっています。

 

ウトロ地区にあった住宅は解体され、京都市が出資をして市営住宅が建てられたのです。人気があまりないのは、そのためもあるということでしょう。トタンで作られた住宅も段々と数が減っていくものと考えられます。

韓国政府も援助資金を提供

ウトロ地区には、韓国政府の援助資金が投入されています。2004年に韓国において国際会議が開かれ、その際にウトロ地区の住民が4名出席したのです。そしてウトロの問題を訴えたところ、韓国から政府関係および国会議員のグループが次々と視察に訪れました。

そのことで、韓国では突如としてウトロ地区に高い関心を寄せるようになったのです。それから、韓国の市民団体ではウトロ救援募金として6,500万円ほど、韓国政府からの支援金として3億6,000万円ほどが寄付されて、2007年9月28日には西日本殖産とウトロ町内会において、地域全体の大体半分ほどを5億円で買い取るという合意に達しました。

また韓国においては、日本のウトロ地区や軍艦島などといった韓国人が強制的に徴用されたとされる場所が、たびたびテレビで放送されることがあり、ウトロ地区も2015年に放送されたのです。

まだまだバラックは残るスラム街

2017年の時点で、ウトロ地区のバラック住居はある程度は撤去されています。それでもまだまだバラックが残り『ウトロ』らしさがあるのです。屋根なども壊れかけていて、既に人が住んでいないように見受けられる建物などもあります。

トタンなどの素材が使われたりしていますが、そのトタンもサビたりもしているのが現状です。70年以上というウトロ地区の歴史の重みを感じさせられるかもしれません。治安自体は悪いというわけではないものの、住居はまだまだ今後も撤去されていくでしょう。ウトロ地区の南側を歩くと、バラックの住宅街が見えてきます。この南側の道の反対側は、防衛省の駐屯地になっているのです。


朝鮮人の街と日本の防衛省が隣り合っているという、不思議な地域ということになります。バラックの周囲は整備がされていなくて、空地になっていて雑草が生い茂っています。それでも、微かに生活をしている雰囲気は今もあるのです。ちなみに、2005年の時点では65歳以上の高齢者を含めた世帯が30世帯と、そして高齢者のみの世帯が16世帯20人となります。生活保護世帯が全体の20%、若い世代についてはウトロ地区を離れて、日本の生活保護を受けている高齢者世帯が多いということです。

  

ウトロ地区を女優のキム・ヘスが援助している

前の項で韓国の政府が資金援助をしていると話しましたが、それだけではありません。韓国の有名女優であるキム・ヘスも援助をしているのです。ここで、キム・ヘスについてやその援助の内容等について迫ります。

キム・ヘスの親族が日本在住経験あり

キム・ヘスは、1970年9月5日生まれの韓国の女優です。演技については東国大学校映画科や成均館大学校大学院で学んでいます。身長は170センチでありテコンドーや水泳が特技となっています。

 

母国の韓国での芸能界デビューは中学生の頃であり、当時はコマーシャル・タレントとして活躍していました。高校生になってから女優となり活動を続けているのです。キム・ドンヒョンとキム・ドンヒという、タレントをしている弟もいます。

 

また、親族が日本に住んでいたことがあるとされているのも特徴です。2005年にはウトロ地区に住んでいる住民を助けるために発足した『ウトロ希望代表33人』にも参加し、ウトロ地区を映像により紹介する録音に関しても協力をしています。

記念館を建てるための募金に参加している

キム・ヘスは、ウトロ地区に記念館を建設するというプロジェクトの募金に参加しています。そして寄付をしていますが、親族が日本に住んでいたことがあったことも理由かもしれません。財団では、差別に抗って地域を保護してきたウトロの住民たちのこれまでを記録して、拡散させるためにも記念館を建てる必要があるという旨を話しています。

非営利団体アルムダウン財団およびキム・ヘスが募金を呼び掛けたものの、支援金は十分には集まっていない模様ですので、これからの動向が注目されます。

ウトロ地区のパンフレットまである

韓国では、ウトロ地区がどの様に成り立っているのかを広めることや、民族文化を守ることを目的として著名人が支持をすることや募金活動をすることがあります。韓国広報専門家である誠信女子大学教授のソ・ギョンドクが、女優のソン・ヘギョと一緒にウトロ地区に対しハングルで書かれたウトロ地区のパンフレットを寄贈しています。

これに対し日本のネット上では、"いい加減にしてほしい"や"既に住宅を建ててしまっているのか。こんなところでも実効支配が行われているようだ"、"宇治市をこれ以上に汚さないで"などといった声があがっています。

また、不法占拠を継続することで立ち退き料に加えて市営住宅の建設を得た証を残したいのだろうという意見もあるのです。それに、政府は何をしているのだという声もありますし、(韓国側が)何を被害者ぶっているのかという声まであります。

土地ころがしの騒動もあった

1987年に日産車体は80世帯が居住するウトロ地区全域を、この地区の自称自治会長である平山桝夫こと許昌九(ホ・チャング)に3億円で売却をしました。彼に現在の在日本大韓民国民団系列である旧・大阪商銀が資金を融資し、在日本大韓民国居留民団の京都地方本部団長をしていた河炳旭(ハ・ビョンウク)が融資の際の連帯保証人になりました。

それから2か月が経ち、許昌九はウトロ地区にある土地を西日本殖産という彼が設立した不動産会社に4億4,500万円で転売をしたのです。1988年には河炳旭は金澤土建という土木建設会社にウトロ地区の土地を持つ西日本殖産ごと売却しました。

そして、ウトロ地区には手を出さなくなったのです。そのころというのは、バブルの真っ只中であり投機をするための短期においての土地転売での利鞘稼ぎいわゆる土地ころがしが日本のあちこちで横行していた時期だったのでした。西日本殖産は住民側にウトロ地区の土地を明け渡すように言ったのですが、住民側は拒否しています。

  

ウトロ地区は在日朝鮮人が住んでいる地域

ウトロ地区は、京都府宇治市に所在する在日朝鮮人の居住地区です。戦時中に計画された航空機工場の建設に携わる作業員とその家族のための宿泊施設があった場所でした。それが今も続き不法占拠となっているのです。

タレントの安田美沙子もウトロ地区の出身ではないかと言われていますが、単にウトロ地区のある宇治市に住んでいたことがあるというだけであり、元は北海道の生まれとなります。ウトロ地区は現在新たな公営住宅の建設がされていて、解体されてきています。

それでもまだまだトタンでできたバラックの住居は残っていて、辺りは静けさがあります。ウトロ地区については韓国政府などから援助があり、女優のキム・ヘスは財団と共にウトロ地区の記念館を建てるための募金活動を始めてもいます。母国の韓国でも、ウトロ地区に関し話題を呼んでいるのです。

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八幡の藪知らず

千葉県市川市八幡にある八幡の藪知らずは、「一度入ったら出てこれない、入れば必ず祟られる」という禁足地である。八幡の藪知らずとは通称であり、不知八幡森(しらずやわたのもり)というのが正式名称のようだ。神隠し伝承から迷宮入りする意味で、八幡の藪知らずという言葉が慣用句にもなっている。

不知八幡森(しらずやわたのもり)ともいう

八幡の藪知らずの写真江戸時代に書かれた地誌や紀行文によれば、細竹・漆の樹・松・杉・柏・栗の樹など様々な雑木林だったようだが、現在では孟宗竹に侵食されており竹林といった状況。柵で囲まれているのでうっかり進入してしまうことはない。

孟宗竹に侵食された藪知らず竹を伐採できないためか、ものすごい密集で奥が確認できない。通称では「八幡の藪知らず」というが、不知森(しらずもり)や不知藪(しらずやぶ)とも呼ばれる。

千葉街道JR本八幡駅のすぐ近く。千葉街道(国道14号線)沿いで市川市役所の向かい側。祟り伝説がなければとっくに建屋でも置かれていただろう。駐輪場からの眺望。領域は18mほどの方形でしかなく、迷うはずはない。江戸時代の文献にも「十間ばかり~」というので、昔と規模は変わっていないようだ。昔からこの森には妖怪が住んでいると里人は固く信じていたらしい。

水戸黄門と八幡の藪知らず二度と出られないというが、過去に帰還した偉人がいる。万治年間(1658~1661年ごろ)に水戸黄門が興味本位でひとり藪に入ったという。昔ばなしによれば、変な姿をした妖怪たちが黄門様の周りを取り巻き、振り返ると入ってきた道は消えてしまった。

白髪の老人の姿をした神(妖怪のボス?)が現れ、禁足地とした理由は平将門と関係があると語り、その怒りに触れた。しかし身分の高い人物ということで黄門様は特別待遇を受け、無事に戻ることができたという。この話が後に錦絵によって広まった。

大正時代の八幡の藪知らず1912年ごろ、大正時代の写真。八幡の藪知らずの側で茶屋のようなものがあった。恐れられているというよりは、知名度を利用してちゃっかり商売しているみたいだ。こんな珍スポットでの茶はどんな味なのか・・。

藪知らずに入ってはいけない理由

入ってはいけない理由は諸説あるが、気になるのは市川市に根付く平将門伝説である。

平将門 影武者伝説

関東を平定していた平将門には7人の影武者がいたが、将門にはこめかみに特徴があったらしく、見破られて討ち取られた。将門の首は塩漬けにされて京都に送られることになったが、7人の影武者が奪還を図り行列の後をつけた。しかし八幡の森にて姿を消し、7体の土人形に変わっていた。

将門の首が京に届けられた後、森の土人形たちは雨によって溶けてなくなった。それからこの森には7人の魂が青い火の玉となって森を飛び回り将門の首を返せと泣き喚くという噂が立った。これを聞いた力自慢の男が退治せんと立ち入ったが、戻ることはなかったという。それ以来、村人はやぶしらずと呼んでよりつかなくなった。(参考:続 市川のむかし話 市川民話の会)

ただし、現地説明板では「平将門の家臣6人がこの地で泥人形になった・・」と記載している。

その他の理由

  • 葛飾八幡宮が最初に勧請した旧地のため
  • 日本武尊が陣所とした跡地
  • 貴人の古墳跡だから
  • 将門を討伐した平貞盛が八門遁甲の陣を敷いたが死門の一角を残してしまい、祟があるとされた
    (つまり、将門討伐のために平貞盛が妖術を用いて、あの世の出入口を開いた)
  • 行徳の入会地だから八幡の民には進入が許されず、「八幡知らず」が転じて藪知らずになった

と、何だかまあ、調べると色々な話がでてくる。

機織り娘

夜更けになるとこの藪から機織りの音が聞こえ、夜が明けると音は止む。ある夜更けに見かけない娘が「おさ」を借りに来たので貸したが、返されたときにはおさに生々しい血がべっとりと付いていたという。※おさとは機織りのときにたて糸をくぐらせる道具(参考:続 市川のむかし話 市川民話の会)

放生池の説が有力

まともな理由のひとつには、放生池の説がある。八幡宮の行事に「生きた魚を放す」放生会(ほうじょうえ)というものがあり、その聖地ゆえというもの。藪知らずの森の中央が凹んでいることから、その説が有力かと思われる。

戦国期、市川市周辺は千葉氏の支配下にあったが、千葉氏内紛によって荒廃し、放生会が途絶えた。結果、禁足地の理由を知るものがなく、創作話が作られていったと解釈されている。

不知森神社

不知八幡森の碑禁足地であるが不知森神社(しらずもりじんじゃ)の領域だけは入ることができる。鳥居の右側にある不知八幡森の碑は、1857年に江戸の伊勢屋宇兵衛(いせやうへい)によって建てられたもの。

葛飾八幡宮

葛飾八幡宮と改耕碑八幡の藪知らずと何やら関わりのある葛飾八幡宮は、すぐ近所にある。まず参道の鳥居をくぐった先には、改耕碑が建つ。

昔の菅野・須和田の地域はスゲやアシが密生しており、雨が降るとすぐ浸水する低湿地帯だった。そのため放置され、周辺地域の田畑は細分化しており、灌漑用水路も整わず耕作に不便であった。

日露戦争のあと食糧増産が叫ばれるようになり、明治45年から広範囲地域の耕地整理事業が着手された。真間川改修と低湿地帯の埋め立てが行われ、境川と真間川を菅野で接続させ湿地の排水を促進。これにより菅野・須和田が耕作地となった。こうした事業完成を記念して建てられたのが、改耕碑である。葛飾八幡宮境内のこの地で竣工式が行われた。しかし、現在ではほとんどの耕作地が宅地化している。

葛飾八幡宮参道京成線により一旦分断されるが、参道は続く。

葛飾八幡宮随神門市指定文化財の随神門。神仏分離する前は、葛飾八幡宮の別当寺であった法漸寺の仁王門であった。

川上翁遺徳碑参道脇の川上翁遺徳碑。市川市で最初に梨栽培をした川上善六の、遺徳を後世に伝える碑が建つ。美濃の国から良種な梨の接穂を持ち帰り、葛飾八幡宮の別当寺であった法漸寺の境内で栽培を本格化させた。

宇多天皇の勅願により勧請された葛飾八幡宮葛飾八幡宮は寛平年間(889~898年)、宇多天皇の勅願により勧請された社で武神として崇敬された(石清水八幡宮を勧請しており下総国の総鎮守)。1180年には源頼朝が参詣、1190年ごろには千葉常胤に社殿修復を命じている。

1479年、太田道灌は臼井城を攻めるために国府台城を築城したが、関東の安泰を祈願し社殿修理を行っている。1591年には徳川家康が社領として朱印52石を供御して崇敬している。

葛飾八幡宮の千本公孫樹本殿東の千本公孫樹(せんぼんいちょう)は、推定樹齢1200年といわれる巨木で国指定の天然記念物。毎年12月上旬の金曜日から日曜日にかけてライトアップ・イベントが行われている。また、9月15日からの6日間、葛飾八幡宮では農具市(ボロ市)が開催される。2016年には葛飾八幡宮の改修工事が完了している。

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心霊スポット「旧善波トンネル」 

旧善波トンネル(きゅうぜんばとんねる)は、神奈川県伊勢原市・秦野市の間にあるトンネルです。別名「準一君道路」とも言われています。
現在では新トンネルが開通していますが、旧善波トンネルもまだ現役で通行することができ、心霊スポットとして有名な場所となっています。

この旧善波トンネルが心霊スポットとなったきっかけは、1965年(昭和40年)9月2日の夕方に発生した事故でした。
秦野市に住む当時17歳の少年がバイクで善波峠を走行中、カーブを曲がりきれなくなった対向車のトラックと正面衝突。亡くなってしまう痛ましい出来事が起きます。
そしてその後、旧善波トンネル付近に

「もう死なないで 準一」

と書かれた看板とお地蔵様が建てられました。事故で亡くなった少年の名前は『準一』だったそうです。
これを目にした通行者によって憶測や噂、怪談が広まり、旧善波トンネルは神奈川県でも有数の心霊スポットとなったのです。
※看板は老朽化により1989年(平成元年)に撤去済。

上記の出来事は本当に起こった出来事ですが、看板が設置された理由には諸説あるようです。
実際に私自身が取材等を行っていないため事実関係はわかりませんが、参照サイトの情報と私なりの解釈で紹介させて頂きます。

【看板設置の由来】

①旧善波トンネル付近では、事故後頻繁に通行車へ飛び込む人影が目撃される。この噂を聞いて「もしかして準一なのでは」と心を痛めた準一君のご両親が、供養の意味で看板を設置した。

②事故後、準一君の両親が頻繁に、準一君が事故に遭う夢を見るようになる。そこでまた事故で悲しい思いをする人が出ないよう、事故防止の意味で「もう死なないで 準一(の願い)」という看板が設置された。

①は怪談発生後に看板が設置されたパターン、②は看板が設置されたことで怪談が生まれたということになります。
オカルト好きとしては①の理由を信じたいですが、どうやら事故再発防止の思いが強い②が看板設置の真相のようです。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」とはよく言ったものです。。。

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旧善波トンネルがある善波峠はかなり急なカーブがあり、元々事故多発地帯だったのだとか。そんな場所に意味深な看板が建てられたとなれば、よからぬ噂が広まるのは想像できるかと思います。
このトンネルが心霊スポットとなった経緯はとても興味深いものです。ですが経緯が明らかになったとはいえ、多くの噂が立つと真実味を帯びるという現象もありますので、何かしらのいわくがあってもおかしくない場所と言えるのではないのでしょうか。

現在では新トンネルもありますし、看板の効果かわかりませんが事故は減少したようです。
今では準一君の魂も、安らかになっておられることを願ってやみません。事故に遭われた方々のご冥福を祈って、合掌。

旧善波トンネルの怖い話

旧善波トンネルを通っていたトラックの目の前に、突然人影が横切った。
「うわっ!ヤバい!!」
運転手は慌てて急ブレーキを踏んだ。
急いで車を降りて確認してみるものの、人の姿はどこにも見当たらなかった。

旧善波トンネルでは通行している車に飛び込む人影が多く目撃されていた。そしてその噂は、実際にトンネル付近で亡くなった少年の両親の耳にも届いていた。
「まさか準一が、自分が死んだことに気づかず何度も同じことを繰り返しているのだろうか…」
もしそうだとしたら、あまりにもかわいそうな話だ。

そこで両親はトンネル付近に
「もう死なないで 準一」
という看板を建て、手厚く供養した。

しかしその人影を見たという人の証言では、どう見ても幼い子供くらいの大きさしかなかったという。
準一君は当時17歳でなくなってはいるものの、子供と見間違うことは考えにくい。
さらに、人影が飛び込こんでくる車のドライバーの名前は皆「ジュンイチ」だったのだ。

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あの上野駅13番線ホームのトイレ、消滅していた

JR東日本は2017年から、クルーズトレイン「TRAIN SUITE 四季島(しきしま)」の運行を始める。それにさきがけ16年12月6日、発着場所となる上野駅の整備計画が発表された。
目玉は四季島専用に作られる新ホーム「13.5番線」。ネットでは、ハリー・ポッターシリーズに登場する「9と3/4番線」を思い出す声がある一方で、一部ユーザーからは「13番線のトイレはどうなった」と心配するツイートが出ている。

ツイッターでは「どうなるの?」の声

上野駅の13番線は、宇都宮線・高崎線のホーム。かつては寝台特急「カシオペア」や「北斗星」、「あけぼの」も発着していたが、これらの廃止や上野東京ラインの開通によって、往時の活気はなくなった。
「四季島」は、この13番線に停車するが、利用者は13番線と14番線の間に新設される「新たな旅立ちの13.5番線ホーム」からの乗車になる。ここは元々、荷物の積み下ろし用途に使われていたホームだ。
このニュースが流れたところ、ツイッターでは以下のような反応がチラホラ見られた。
「13番線のトイレはどうなるんだろう?」
「名物の13番線トイレなくなるの!?え!?」
「上野駅13番ホームのトイレはどうなるの?」
中央改札寄りのホーム先端にあるトイレ。ここの男性トイレは、「長居」する人が多く、「用便など本来の目的以外でトイレに立ち入ることを禁じます」との張り紙が貼られていることなどが、しばしばインターネット上で話題になっていた。その動向を気にするユーザーが多かったのだ。

跡地横にはラウンジが

そこで記者は12月7日、現地を訪れてみた。しかしトイレは、9月11日に15番線ホーム寄りへ移転していた。新しいトイレは、茶色いカフェ風の外観で、一般的なイメージよりもオシャレになっている。

ポスターに書かれた移転理由は「駅改良工事」。JR東日本の発表文を読むと、トイレ付近には利用者がくつろげるラウンジ「プロローグ四季島」が設置されるようだ。なお地図を見比べると、旧トイレより若干右に描かれているため、「跡地」なのかの確証はつかめない。

北の玄関口として、集団就職で上京してきた若者から、「さよならあなた」と北海道へ帰る傷心の女性まで、数々の人々を見てきた上野駅13番線ホーム。「四季島」の運行開始によって、さらなる発展がのぞまれる。

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