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【羽田沖墜落事故・逆噴射?】「機長!やめてください!」日本航空350便墜落事故を漫画にしてみた(マンガで分かる)@アシタノワダイ

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信じるか信じないかはあなた次第

 

 

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機長が逆噴射 日航機羽田沖に墜落

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JALグループにおける123便以外の主な事故

N93043 「もく星号」三原山事故

事故概要

1952年4月9日、東京発大阪経由福岡行マーチン202型機「もく星号」が、伊豆大島三原山に衝突しました。乗客・乗員37名全員が亡くなられました。

推定原因

事故の原因究明は、政府の航空事故調査会によって全力で行われましたが、占領下にあった羽田の航空管制塔から遭難機への指示を録音したテープの提供を占領軍から断られるなどで難航しました。そのため結局、納得がいくかたちで解明されないまま、操縦者が航法上何らかの錯誤を起こしたと推定した航空庁の事故調査報告書をもって調査は打ち切られました。

JA8764 「ばんだい号」横津岳事故

事故概要

1971年7月3日、札幌(丘珠)発函館行き東亜国内航空63便YS-11-227型「ばんだい号」が、函館空港に着陸進入中、同空港の北西約15Kmの横津岳に墜落しました。乗客・乗員68名全員が亡くなられました。

推定原因

操縦者が、函館NDBの北方約5海里の地点上空をNDB上空と誤認し、かつ(6,000フィート付近から)1回の旋回降下によってハイステーションを2,500フィートで通過しようとしたため飛行経路が西方にひろがり、この間強い南西風によって同機が予想以上に北方に押し流されたことによるものと推定されています。

JA8012 ニューデリー事故

事故概要

1972年6月14日(現地時間)、東京発ロンドン行き(東京-ホンコン-バンコク-ニューデリー-テヘラン-カイロ-ローマ-フランクフルト-ロンドン)日本航空471便は、バンコクを離陸しニューデリーへ・パラム空港へのILS進入許可を得たのちDMEから23マイル(43Km)のレポートを行なった直後に、ヤムナ川の土手に激突しました。 乗客・乗員86名が亡くなられ、3名が重傷を負われました。

推定原因

日本側の調査結果によると、471便は空港のグライドパス誤信号のため規定より低い高度で降下し、地上に衝突したと推定していますが、インド側では、乗員が定められたプロシージャーを無視するとともに滑走路を十分に確認せず計器の表示に注意を払わなかったことが原因であるとしています。

JA8040 モスクワ事故

事故概要

1972年11月28日(現地時間)、コペンハーゲン発モスクワ経由東京行き日本航空446便は、モスクワのシェレメチボ空港滑走路から離陸滑走を開始し、浮揚後100メートル程度上昇し、その後急激に下降し始め、地面に激突して大破炎上しました。乗客・乗員62名が亡くなられ、14名が重傷を負われました。

推定原因

離陸後の飛行中、誤ってスポイラを出したため、航空機を臨界迎角以上に至らしめたか、凍結のため、第1または第2エンジンの作動が異常となり、正常に操縦できなかったと推定されています。

JA8054 アンカレジ事故

事故概要

1977年1月13日(現地時間)、モーゼスレイク発アンカレジ経由東京行きの貨物便日本航空1045便は、アンカレジ空港の滑走路24Lから離陸した直後墜落しました。同機は日本向け食肉牛56頭を搭載した貨物便でした。添乗員・乗員5名が亡くなられました。

推定原因

アルコールの影響を受けていた運航乗務員の操縦操作に起因し、機体着氷によりさらに悪影響を受けて生じた失速によるものであり、関与要因としては、他の乗組員が機長の飛行の意志を止めさせなかったことと推定されています。

JA8051 クアラルンプール事故

事故概要

1977年9月27日(現地時間)、東京発香港、クアラルンプール経由シンガポール行き日本航空715便は、経由地のクアラルンプール空港滑走路への進入降下中に、空港から約7.5キロメートル手前の標高約80メートルの丘に衝突、炎上しました。乗客・乗員79名のうち34名が亡くなられました。

推定原因

機長が滑走路を視認することなく最低降下高度以下に降下し、滑走路末端から4海里(約7.5キロメートル)手前の標高260フィート(約80メートル)の丘に衝突するまで降下し続けたことによるものであると推定されています。 関与要因としては、数機の航空機が進入の順番を待つため待機していた悪天候下において、機長の飛行経路の監視が不十分であったこと、さらに重要なことは、副操縦士が機長に会社規定に違反していることについて、その是正を要求しなかったことにあるとされています。

JA8061 羽田沖事故

事故概要

1982年2月9日、福岡発東京行き日本航空350便は、東京国際空港C滑走路33Rへの進入中に滑走路手前の沖合の海面に墜落しました。乗客・乗員174名のうち24名が亡くなられ95名が重傷を負われました。

推定原因

着陸進入中、機長が操縦輪を押し込み、かつ、全エンジンのパワー・レバーをフォワード・アイドル位置まで引き戻し、その後さらに第2及び第3エンジンのリバース・レバーをリバース・アイドル位置まで引いたことによるものと認められます。機長がかかる操作を行うに至った理由は、その精神的変調によるものと認められます。

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羽田沖墜落事故の片桐機長の現在は?副操縦士の名前や生存者は?

1982年2月9日午前8時44分、福岡発東京行きの日本航空350便dc8型機が滑走路手前の海に墜落した「羽田沖墜落事故」は、機長が正常な判断能力を失っていたことが事故原因と報道されました。

 

当日の日本航空350便の操縦桿(そうじゅうかん)を握っていた機長の名前は、片桐清二(当時・35)。

 

副操縦士は石川幸史氏(当時・33)で、片桐機長は病気によって判断力を失っていて必要以上に速度を下げ、逆噴射までしようとしたのです。

 

そのとき、石川副操縦士と航空機関士は「機長!やめてください!」と言って、どうにか墜落を免れようと懸命に努力したのですが間に合いませんでした。

 

結果、24人が亡くなり、149人が重軽傷を負ったのです。

 

そんな今回は、「羽田沖墜落事故」についてまとめると共に、 片桐機長の現在を調査してみました。

羽田沖墜落事故の原因

乗客乗員あわせて174人が乗った日本航空350便dc8型機の「羽田沖墜落事故」は、24人の犠牲者を出しました。

 

死者の多くは、1番機で東京に向かっていた働き盛りのビジネスマンで、死因は身動きができず溺死した人が多かったとか。

 

また、この墜落事故で犠牲になった人の慰霊碑は、ソラムナード羽田緑地建立されています。

 

そして、墜落事故の原因ですが、当初は機体の老朽化などが考えられましたが、実際は片桐機長が突如、逆噴射を行いながら機首を下に向け、そのまま海へ突っ込んだのです。

 

当然、この片桐機長の操縦に疑問が集まりました。

 

(片桐機長の画像)
片桐機長の画像

 

ボイスレコーダーには、最後の部分に「機長!やめてください!」と操縦桿を引き戻そうとして叫んだ石川副操縦士の声、墜落後に片桐機長が「やっちゃった」と、つぶやく声が記録されていたのです。

 

片桐機長は1980年11月頃より「心身症」などを理由に短期休養を命じられていました。

 

その後、日本航空の乗員健康管理室の医師により、機長として乗務することは支障のない旨の判断があったので、国内線機長として復帰していたのです。

 

ところが、片桐機長は「羽田沖墜落事故」の2年ほど前から、異常な行動を取っていたことが分かり、鑑定の結果、極度の精神分裂病と診断されました。

 

それに事故前日にも、羽田発福岡空港行きJL377便に乗務していたのですが、その際も異常な操縦がおこなわれたため、乗客からのクレームがあったそうです。

 

事故当日も、あいさつ等のアナウンスをしなかった片桐機長は、墜落させた後、「この操作の直前に「去ね(いね)、去ね。」という山彦のような声が聞こえ、その後は墜落直後まで気を失った」と述べたのです。

 

そんな片桐機長は「羽田沖墜落事故」で一時は逮捕されたものの、精神鑑定の結果、刑事責任は問えなくなったのでした。

羽田沖墜落事故 最後の生存者と日本航空の隠ぺい

羽田沖墜落事故は、一般の市民の救助活動もあって、生存者はすぐに空港周辺や都内の20カ所の病院に収容されました。

 

最後の生存者となったのは、12列目の座席に座っていた女性でしたが、救出しようにも天井が体にくいこんで身動きできず。

 

そう簡単には助け出せない状態が3時間も続いたそうです。

 

そして、ついに血圧低下で女性の容態が変わり始めると、救助にあたった医師が、座席の椅子をくみ上げているボルトを外すことを考案。

 

取り外すのは左側の肘掛部分で、わずかな隙間から女性を救い出す行動に出たのです。

 

そうしてようやく無事に救い出された最後の生存者は、病院に搬送され、何とか一命を取りとめたのでした。

 

一方、飛行機を墜落させた片桐機長は、事故発生後、行方不明に。

 

そのため、機長の生死に関する情報が5時間にわたり交錯したのでした。

 

ところが、この報道は日本航空による隠ぺい工作だったのです。

 

実際はというと、片桐機長は、墜落した飛行機に負傷者が残っているにもかかわらず、乗客や客室乗務員よりも早く救命ボートに乗って現場を去っていたのです。

 

その後、羽田東急ホテルで、日本航空が手配した東京慈恵会医科大学附属病院の医師の診察を受けた後、慈恵医大病院に入院。

 

片桐機長が入院したのは、小児科病棟401号室で、後に特別病棟428号室に移ったのでした。

 

日本航空側は、この不可解な行動を知りながら、「機長死亡説」を故意に流し、片桐機長と石川副操縦士から事情を聴取。

 

事故原因の事実を隠ぺいし、「機長隠し」と騒がれたのでした。

 

なお、羽田沖墜落事故の犠牲者の遺族には、ホフマン方式により、日本航空から補償額が支払われています。

片桐機長の現在と副操縦士のその後

日本航空350便dc8型機の副操縦士の名前は石川幸史氏です。

 

石川副操縦士は、中央大学経済学部卒業後、日本航空に入社。

 

入社後は航空機関士として経験を積み、10年後に副操縦士になっています。

 

そして、事故があったその後も勤務をこなし、日本アジア航空でようやく機長に就任したということです。

 

問題の片桐機長は、大分県別府市出身。

 

実家は、昭和の初めから商店街で時計屋を営んでいたといいます。

 

また、店舗以外に高級住宅街に別宅があったという片桐機長は、大分県立別府鶴見丘高校から岡山大学理学部数学科に入学。

 

しかし、2年で中退して、航空大学校に再入学しているのです。

 

そんな片桐機長の結婚はパイロットになってからで、子供は娘がいるそうです。

 

性格は無口で、感情の起伏をまったく見せないのだとか。

 

趣味は釣りで、酒や煙草、ギャンブルなどもやらないということですが、日本アジア航空へ出向し、定期運送用操縦士の学科試験に落ちたあたりから異常が見え始めたといいます。

 

そして墜落事故を起こした後、統合失調症と診断され、松沢病院に入院。

 

その、数年後、日本航空を解雇されています。

 

片桐機長の現在は、72~73歳になっていて、自宅がある神奈川の葉山で生活しているのだとか。

 

それに、もともと資産家だったので、車の免許もとりなおし、悠々自適な生活を送っていると言われている一方で、嫁と離婚し、現在、姉が面倒を見ているという情報もあるようです。

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