11月17日は、2004年に奈良女児殺害事件が起きた日で、ニュースを見ると、殺害された女児の父親が警察を通じて心境を発表していた。また地元小学校で「命を考える集会」が開かれたという。

 

そのニュースに接して殺害犯であった小林薫死刑囚(既に執行)のことを思い出した。

私は、彼の死刑が確定する2006年の約1年前から接触し、公判は毎回奈良へ出向いて傍聴した。多い時は月に複数回開かれたので、当時はたびたび奈良へ行き、小林死刑囚とも何度も接見した。

また、手紙も頻繁にやりとりしていた。

 

彼は公判当初から、もう生きていても仕方ないと死刑を望み、死刑判決後に自ら控訴を取り下げて死刑を確定させてしまったのだが、私は、それに反対して彼を説得し続けた。

確かに彼の犯した事件はあまりにもむごく、罪を償うのは当然だが、死んでしまいたいと望んでいる者が死刑になることが罪を償うことになるのか疑問だった。

 

死刑判決を前にした2006年夏に、私が小林死刑囚を説得していたのは、公判廷で直接、被害女児の両親に謝罪してほしいということだった。

両親は毎回、公判を傍聴していたから、彼はその気になれば直接、特別傍聴席に座っている両親に謝罪することができたのだ。

私は死刑判決などよりも、小林死刑囚に人間としてそうしてほしかったし、それは大きな意味があることと思っていた。

 

しかし、それもかなうことなく、彼は控訴取り下げによって自ら死刑台へのボタンを押してしまった。今でもそれが残念でならない。

このブログの冒頭に掲げたのは、その小林死刑囚が控訴取り下げを行った2006年10月10日のその日に、私あてに書いた直筆の手紙だ。私にとっては衝撃の結末だった。手紙の中で小林死刑囚は、被害女児の楓ちゃんに言及し、控訴取り下げする理由を「被害者の楓ちゃんに対する償いは、やはり死をもってでしか償えないと今も考えているからです」と述べている。

小林薫死刑囚と関わったいきさつや彼が死刑執行された時の状況などは、拙著『ドキュメント死刑囚』に詳しく書いた。今回、被害女児の父親がマスコミに公表した手紙を読んで、私も毎回、公判で見かけた両親の姿を思い出した。まず今回公表された手記を引用しよう。

《事件から12年がたちました。あの日の後悔・無念・悲しみの記憶は消えることなく、今でも頭の中を駆け巡ってきます。楽しかったことを思い出すにも必ず身元確認の時の表情が出てきます。そして通夜・葬儀の記憶が呼び戻されてきます。喪失感は、時間が解決してくれません。

楓が生きていれば19歳になっていました。看護師の夢を追いかけていたのか、それとも新しい夢に向かっていたかもしれません。どんな未来でも楓は何事にも一生懸命に向き合っていたと思います。でも写真の楓は笑顔を見せてくれますが何も語り掛けてくれません。突然奪われた娘の将来は戻ることなく、残された私たちも、楓のいない現実と向き合い生きていかなければなりません。

各地で犯罪被害者・被害者遺族への支援も拡充されてきています。奈良県でも4月から支援条例が施行されました。毎日普通に過ごしていても時間が止まったままの日々、幾度となくよみがえる消えない記憶に苦しむ私たちには、大きな支えであると思います。地域のつながり、行政の取り組みなどがより広まり、子どもたちの笑顔の絶えない社会の実現を心より願います。》

 

小林死刑囚は刑の執行によってこの世を去ったが、遺族にとっては、いまだに娘を失った悲しみは消えていない。公判を傍聴していて一番印象に残っているのは、両親が涙ながらに法廷で証言を行った時のことだ。傍聴席が涙に包まれ、私も涙が止まらなかった。拙著でほぼ証言の全文を紹介しているが、ここで改めてその一部を引用しよう。拙著では被害女児をKと仮名にしたが、今回の手記でも父親は実名で語っているし、ここでは実名をあげることにする。まだ事件の傷跡が生々しかった時の証言だ。

《楓と再会したのは奈良西署でした。白い布がめくられた瞬間、楓だとすぐにわかりました。でも、その表情にいつもの笑顔はありませんでした。もう頭の中が真っ白になり、何を思ったか、何を考えていたのかほとんど覚えていません。ただ悲しく、抜け殻のようでした。もう人生が終わってしまったかのような気がしました。

命より大切な楓が被害にあったとは信じたくありませんでした。家の中はとても静かでした。家にいてる間、楓が被害にあったなんて信じられず、今にも「ただいま、遅くなってごめんなさい」と帰ってくるのではないかと思えました。(略)

楓の声を聞かなくなって1年半が過ぎました。この1年半で、私たちの心はボロボロになってしまいました。楓に会いたい、楓と喋りたい……家にいても、仕事をしていても1日たりとも頭から離れることはありません。家から出ると必ず楓が連れ去られた現場が目に入ります。

そのたびに、事件のことが頭を駆けめぐります。そのたびに息苦しくなってしまいます。こんなに苦しい思いをするのなら、全く知らない土地へ引っ越したいと何度思ったかわかりません。

でも、楓の家はここなのです。私たちが引っ越せば、楓の帰ってくる家がなくなってしまいます。楓にこれ以上寂しい思いをさせるわけにはいきません。私も妻も感情を押し殺して生活していけばいいだけです。

 

しかし、下の娘はそういうわけにはいきません。下の娘はあの時はまだ2歳でした。まだ小さいからわからないと思うかも知れません。でも私たち以上につらい思いをしているのです。すごく仲のよかった楓ちゃんが突然いなくなったのです。今でも楓との楽しかった時のことを私たちに話してきてくれます。(略)

 

私たち家族は恐怖のどん底まで突き落とされ、悲しみと絶望の谷からはい上がるすべも見当らないまま今日まで過ごしてきました。今でもなぜこんなにも苦しい思いをしなければならないのかわかりません。私たちが何か悪いことでもしたのでしょうか。楓を奪われなければならないことをしたのでしょうか。

今でも私たちと一緒に楓はいます。でも、何年経っても何十年経っても楓は7歳のままなのです。時間は止まったままなのです。この悲しみ、苦しみから少しでも逃れたい。その思いから毎日感情を押し殺し、毎日を過ごすようにしています。そうしないと、この寂しさに押しつぶされてしまいそうで怖いのです。こんなつらい思いがいつまで続くのかと思うと、本当に気が狂ってしまいそうになります。

私たちの願いはただひとつ、楓を返してほしい、それだけです。家族4人で平凡に笑って楽しく暮らしたい。うれしかったこと、楽しかったこと、悲しかったことなど話を聞いてあげたい。あの笑顔、あのにぎやか過ぎるほどの笑い声の楓を返してほしい。それ以外に望みはありません。無理なことは頭ではわかっています。それでも、もう一度家族4人で暮らしたいのです。楓がいて、4人そろってこそ、家族なのです。

私たちにこんな思いをさせた小林を許すことはできません。楓の命を簡単に奪いながら平然と生きている小林を決して許すことはできません。私たちは小林に今でも「極刑以上の刑」を与えてやりたい思いでいます。当然そのような刑がないのは知っています。それでも「極刑以上の刑」を与えてほしい。そして、楓が受けた苦しみ以上のつらさを味あわせてやりたい。小林をどれだけ殴っても私たちの気持ちが晴れることはありません。何度殺しても私たちの悲しみの気持ちは変わることはないのかもしれません。これ以上楓が悲しむような犯罪を起こさないためにも、小林には「極刑以上の刑」を与えてほしいと思っています。》

その2006年5月25日の公判の後も、私は小林死刑囚に接見した。遺族の証言の感想を聞いてみると、彼は親が「極刑以上の刑を与えてほしい」と語ったことを受けて、「当然の気持ちでしょうね」と語った。

そして6月6日付の手紙で彼は、こう書いていた。

《5月25日の公判で行なわれた遺族の意見陳述を聞き、二人の娘に対する愛情の深さを知りました。と同時に、私が育った環境との違いをも感じました。》

詳しく紹介する余裕はないが、小林死刑囚は、小学生の時に母親と死別し、父親の暴力と学校でのいじめにあって、非行に走り、その後、社会に出てからも疎外されっぱなしの人生を送っていた。幼少に亡くなった母親への思慕の情は強烈で、彼の生きるうえでの支えになってもいた。楓ちゃんの両親の証言を聞いて、自分と違って、その子がいかに親に愛されていたか思い知らされたというのだった。

 

私と小林死刑囚とは、2005年に彼が鑑定を受けるために東京拘置所に移送されてきていた時期に接見したことで縁ができたのだが、彼と接していた間中、たぶん彼は違った家庭環境に生まれていればあんなふうにならなかったろうと感じていた。確かに犯した犯罪は許されるものではないが、彼をそこへ追いやったそれまでの人生や環境を思うと、「もう生きていても仕方ない」と考えていた彼が死刑になることで何か解決になるのだろうかという疑問はずっと捨てきれなかった。

この事件を機に、日本においては性犯罪者への本格的な治療プログラムが刑務所に導入されるなど、彼は意図せざる足跡を残しているのだが、その後も小さな子どもが犠牲になる性犯罪はあとを絶たないのが現実だ。

 

この11月11日にも死刑囚の刑が執行されたが、小林死刑囚との約1年間のやりとりの間、私は死刑というものについて考え続けていた。彼は地裁で死刑判決を受けた時に法廷でガッツポーズをとったとして報道された。死は彼が望むものだったのだが、私はずっと、彼にとって本当に罪を償うというのはどういうことなのだろうかと考えさせられた。また自ら死を望んで、弁護人が行った控訴を取り下げた小林死刑囚だったが、取り下げを行うまでそうすべきかどうか迷っていた。その時期、私には実に頻繁に手紙が届いていたのだが、その手紙のたびに彼は思い悩み、控訴審を受けるべきか取り下げるべきか迷っていた。死というのは彼にとっても重たいものだったのだと思う。

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さて先日の死刑執行をめぐって異例だったのは、10月7日に「死刑廃止宣言」を採択した日弁連が抗議声明を出しただけでなく、その「死刑廃止宣言」に反対する弁護士グループも見解を表明したことだ。死刑をめぐる論争が再び活発になっているのだが、ちょうど発売中の月刊『創』(つくる)12月号ではその「死刑廃止宣言」を推進した責任者である加毛修弁護士にロングインタビューを行い、その宣言について考える特集記事を掲載している。