信じるか信じないかはあなた次第
- 近藤真彦が不倫相手に語っていた「明菜のこと」、平成芸能を揺るがせた金屏風事件
- 近藤真彦と中森明菜の交際→破局まとめ!8000万を騙して金屏風事件へ!
- 近藤真彦と中森明菜の交際→破局までの流れ
- 近藤真彦は中森明菜から8000万円をだまし取った?
- 金屏風事件の真相は?中森明菜は騙されてない
近藤真彦が不倫相手に語っていた「明菜のこと」、平成芸能を揺るがせた金屏風事件
文春オンラインが近藤真彦の「5年不倫」を報じた。お相手は25歳年下の女性社長のA子さん(31歳)で、沖縄でゴルフを楽しむ姿の写真まで掲載されている。近藤は妻子ある身で、結婚生活は実に26年。昨今、激動するジャニーズ事務所でも“長男”という立ち位置で、所属歴は43年の大ベテランだ。
事務所に守られ、大切に育てられた近藤のスキャンダルといえば、過去に1度しかない。それは平成の芸能史に残る“事件”とも言われる、中森明菜との「金屏風事件」。明菜とのスキャンダルは、不倫相手のA子さんにも「自分のせいだった」と話しているようで、A子さんへの信頼度がうかがえる。
ここで、平成が終わる直前に週刊女性PRIMEで配信した「《平成芸能回顧録》中森明菜のトラウマ “金屏風事件” の代償」を再掲する。
平成元年
平成元年が始まったのは1989年1月8日からだった。
国内では初となる消費税、税率3%が施行されたのはこの年から。任天堂が『ゲームボーイ』を発売し、大ヒット。NHKはBS衛星第1・第2テレビの本放送を開始した。
ファッションでは“渋カジ”やラルフローレンが大人気で、小説『TUGUMI』で作家の吉本ばなながブレイクし、村上春樹の『ノルウェイの森』も大ヒットする、小説の当たり年でもあった。
そんな中、国民的漫画家・手塚治虫さんが死去。美空ひばりさんもこの世を去った年でもある。
まだバブル景気がピークを迎えたこの年の芸能界で、一番の話題といえばこの2人の動向だったことは間違いないだろう。
平成元年の7月11日、中森明菜(当時23歳)が近藤真彦(当時24歳)の自宅で衝撃の自殺未遂を起こしたことだった。
仕事を終え六本木の自宅マンションに帰った近藤は、浴室に血まみれで横たわる明菜を発見。明菜の自傷状態は左肘内側に深さ2センチ、長さ8センチの深いもので、神経に達するほどの重傷だった。すぐさま慈恵医大病院に運ばれ、6時間にも及ぶ手術の結果、一命を取り留める。
当時、現場を取材したベテラン記者が振り返る。
「すぐに結婚したかった明菜と、結婚は30歳を過ぎてからという近藤の考えには温度差があったわけですが、すでに6年間も交際をしていた明菜にとっては、近藤に全てを捧げる覚悟を持っていたに違いない状況でした。
当時、明菜が結婚後の新居のために蓄えていた数千万円の資金を、近藤が自身のカーレースに使い込んだなど、明菜が騙されているという報道が多くありました。
その中でも一番、明菜の心を砕いたのが最大のライバルであった松田聖子と近藤の、ニューヨークでの密会キス写真を写真週刊誌に掲載されたことだった。これが自殺未遂の最終的な引き金となったと言われています」
無念な表情の明菜
その後、約半年間も表舞台から姿を隠していた明菜は、12月31日の大晦日、夜10時過ぎという時間に緊急復帰会見を行なうことになる。テレビ朝日は大晦日の特番を急きょ変更して生中継にするなどの気合の入れようだった。
会見場には明菜だけではなく近藤の姿もあり、バックが金屏風というものだった。これは婚約発表会見ではないかと、現場の新聞記者たちが、元旦のトップ記事の差し替えや、見出しのやり取りでちょっとしたパニック状態になっていたという。
長かったロングヘアをショートにし、グレーのスーツ姿の明菜が姿を表すと、途切れることなくカメラのフラッシュが光り、シャッター音が鳴り響く。彼女は200人を超える報道陣を前に、深々と頭を下げていた。
自殺未遂に及んだ理由を仕事上の人間関係が原因としながらも、「一番最初に見つけてほしかった」と近藤への思いを静かに切々と話す。
会見に同席した近藤は、
「(復帰会見の)お手伝いが少しでもできたことに、すごく喜びを感じています」と他人事のように話し、リポーターからの「結婚は?」の質問に対しては「そういうことはまったくありません」と、明菜との6年間におよぶ恋愛すら否定してみせたのだ。
隣でうつむきながら近藤の話を聞いていた明菜は、最後に近藤に促されるように“友人として”握手をするという形で会見を終えた。
この時の明菜の表情は何ともいえない無念さをにじませていたのはいうまでもない。これがいわゆる“金屏風事件”だ。
その後、近藤はカーレースを続行していくが、本業の芸能活動は避けるように表舞台から遠のいていき、94年6月には一般女性と結婚。
克服できない“トラウマ”
90年に復帰した明菜はシングル『Dear Friend』や『水に挿した花』とヒットを飛ばす一方で、近藤との距離は離れていくばかり。結果的に精神状態が不安定なまま、相次ぐ事務所とのトラブルや奇行などの問題が続き、歌唱力は高く評価されながらも活動を自粛していく。
その後、所属事務所やファンクラブに関するトラブルを繰り返すも、女優としてテレビドラマに出演するなど、ファンの前に顔は出していた。が、次第にその活動範囲は狭まり、2010年、体調不良により無期限の活動休止を発表。
4年後の14年、サプライズゲストとして紅白歌合戦に出場。その後も復帰を模索するがうまくいかず、16年には久しぶりとなるディナーショーを行った。そして、35周年メモリアルイヤーとなる17年もディナーショーで顔を見せるものの、18年の年末はツアーも開催できないまま、年を越してしまう。
「今でも活動がうまくいかないのは、金屏風会見がトラウマとなっていることが克服できないからと言われています。あのような形で会見に引っ張り出された彼女は、大手の芸能関係者に嫌悪感を持っているんです。
メディアに囲まれるのをものすごく嫌がりますし、限られたスタッフ以外は信用ができないという状態で、大きな活動がしにくいわけです。周囲の信用できるスタッフは、恋人関係と言われるマネージャーのA氏を中心に限られた数人だけ。
前回のディナーショーは、ツアーイベントをやったことがなく、芸能界ではない人物が窓口だったので、大きな活動や継続がそもそも難しいのだと思います」(芸能界関係者)
現在は、アメリカと日本を行ったり来たりの生活をしているという明菜。
自殺未遂はアイドル全盛時代の中で、今では想像できないほどの大スキャンダルだったわけだが、30年を過ぎて今もなお、乗り越えることができない出来事となっているのかもしれない。
近藤真彦と中森明菜の交際→破局まとめ!8000万を騙して金屏風事件へ!
80年代のトップアイドル、近藤真彦さんと中森明菜さんは交際していました。
しかし、1989年に中森明菜さんは近藤真彦さんのマンションで自殺未遂をし、2人の関係は終わりを告げます。
中森明菜さんが思いつめてしまうほど、近藤真彦さんとの間に何があったのでしょうか?
近藤真彦さんと中森明菜さんの交際から破局までの流れ、交際の間で起こったトラブル、破局に至った経緯、金屏風事件の真相を詳しく解説します。
近藤真彦と中森明菜の交際→破局までの流れ
近藤真彦さんと中森明菜さんという、昭和のビックアイドル同士の交際は当時とても話題になりました。
近藤真彦さんと中森明菜さんの交際から破局までの流れをまとめました。
- 1985年1月 映画「愛・旅立ち」で共演→交際へ
- 1989年7月11日 近藤真彦のマンションで中森明菜が自殺未遂
- 1989年12月31日 「金屏風事件」で破局を報告
1985年 映画共演で交際へ
1985年1月、近藤真彦さんと中森明菜さんは映画「愛・旅立ち」で共演をします。
近藤真彦さんと中森明菜さんは、映画「愛・旅立ち」がきっかけで付き合い始めます。
当初、中森明菜さんが近藤真彦さんのファンだったという噂がありましたが、1985年の歌番組で近藤真彦さんと中森明菜さんのやり取りを見ていると、近藤真彦さんが中森明菜さんに気があるように見えますね。
近藤真彦さんが中森明菜さんに「好きなタイプを教えてください」と口説き文句のような言葉を言っています。
ともあれ、近藤真彦さんと中森明菜さんがとってもいい雰囲気であることが伝わってきますね。
近藤真彦と中森明菜の交際期間は4~6年
2021年4月30日Fridayの報道では、近藤真彦さんと中森明菜さんの交際期間は6年とされていましたが、1985年の歌番組の放送を見ると、2人はまだ付き合っていないように見えます。
ただ、トップアイドルの近藤真彦さんと中森明菜さんが4~6年も付き合っていたことは確かです。
アイドル同士の交際が御法度とされていたこの時代に、ふたりは6年間もの交際を続けていた。
何度となく結婚の情報が流れ、この翌年に某テレビ局が二人の結婚式を生中継するという話まで出ていたほどだ。
引用:Friday
1989年 中森明菜が近藤真彦のマンションで自殺未遂
1989年7月11日、中森明菜さんは近藤真彦さんのマンションの浴室で自殺未遂を起こします。
中森明菜さんが思いつめてしまった原因は3つ考えられます。
- 近藤真彦との結婚観の違い
- 近藤真彦と松田聖子のスキャンダル
- 近藤真彦による8000万円の借金
①近藤真彦との結婚観の違い
順調にいっていたと思われていた近藤真彦さんと中森明菜さんの交際。
実は、「すぐに結婚したい」と言っていた中森明菜さんに対し、「30歳までは自由でいたい」という近藤真彦さんと意見が食い違っていました。
当時、近藤真彦さんは24歳。
まだまだ遊びたい盛りだったんでしょうね。
②近藤真彦と松田聖子のスキャンダル
また、1989年2月に、近藤真彦さんはニューヨークで松田聖子さんとのスキャンダルを撮られています。
松田聖子さんは近藤真彦さんとの関係を否定していますが、中森明菜さんはショックだったでしょうね。
③近藤真彦による8000万円の借金
近藤真彦さんは、中森明菜さんから8000万円の借金をしていたと言われています。
その借金は未だに返済されておらず、そのことも中森明菜さんを悩ませていました。
詳しくは後述します。
自殺未遂から半年で復帰会見「金屏風事件」
中森明菜さんの自殺未遂から約半年後の1989年12月31日、近藤真彦さんと中森明菜さんは、復帰会見を行いました。
それがいわゆる「金屏風事件」と言われている会見です。
会見で中森明菜さんは、迷惑をかけたことを謝罪し、
- 私が仕事をしていく上で一番信頼しなきゃいけない人たちを、信頼することが出来なくなってしまった
- 自分が一番信頼できたたった1人の人だったので、近藤さんの部屋に行ってしまって。最初に見つけてほしいなと思って
と、自殺を図った経緯を説明しています。
なぜ金屏風事件と言われているかというと、会見に「金屏風」が設置されていたからです。
普通金屏風がある会見といえば、おめでたい婚約会見を連想しますよね?
しかし、近藤真彦さんは、中森明菜さんとの結婚をきっぱりと否定しました。
一説には、中森明菜さんは婚約会見と騙されて、会見に臨んだとも言われています。
金屏風事件の真相については、後述します。
近藤真彦は中森明菜から8000万円をだまし取った?
近藤真彦さんと中森明菜さんの交際していた時のことを調べていると「8000万円」というキーワードが出てきます。
これは、近藤真彦さんが「中森明菜さんとの新居に使うから」という名目で、中森明菜さんから8000万円を借金したというものです。
しかし近藤真彦さんは、中森明菜さんから借りた8000万円を新居のためには使わずに、自分のカーレースの費用に充てていたのでは?と噂されています。
カーレースはとてもお金がかかり、近藤真彦さんがエントリーしているクラスだと年間1億円が必要と言われていました。
いくらトップアイドルの近藤真彦さんでも、簡単に払える金額ではありません。
2021年4月30日Fridayによると、近藤真彦さんは中森明菜さんんに借用書を書いていて、今でも持っていると関係者が証言しています。
つまり、関係者の証言が正しいのであれば、近藤真彦さんは中森明菜さんから数千万円の借金をしていて、まだ返済していないことになりますね。
後年、明菜の元所属事務所関係者に会う機会があった。そのとき彼は、近藤が書いた借用書を今でも持っていると言っており、彼が言うには、金額は数千万をはるかに上回っていた。しかし現物を見ていないので、真偽のほどはわからない。
引用:Friday
金屏風事件の真相は?中森明菜は騙されてない
金屏風事件で、中森明菜さんは「婚約会見」と騙されて出席したという噂がありますが、本当なのでしょうか?
結論から言うと、中森明菜さんは騙されていません。
理由①金屏風を用意したのは会見場のホテル
会見場に金屏風を用意したのは、ホテルでした。
中森明菜さんの復帰会見だから、めでたいことなので、金屏風を用意したとのことです。
金屏風を用意したのはホテル側だった。明菜の復帰会見だから、めでたい席だと判断し、気を利かせた。これが誤解を招く
引用:Yahoo!ニュース
予め婚約会見を目論んでいたのであれば、金屛風を用意するのはホテル側ではないはずですね。
理由②中森明菜の恰好
金屏風会見で、中森明菜さんの恰好を見てください。
グレーのジャケットを着ていますね。
婚約会見と聞かされてきたのならば、もっとドレッシーな格好をしてくるのではないでしょうか。
中森明菜さんは、衣装を自分で選ぶぐらいファッショにはこだわりがありますからね。
理由③中森明菜が騙されたという報道は2016年から
中森明菜さんが「婚約会見」と騙されて出席したという報道が出たのは2016年なんです。
金屏風事件から実に27年後のことになります。
1989年当時は、「中森明菜の謝罪会見」と報道がされていました。
記者たちの間で「中森明菜は婚約会見と騙されてたんじゃないのか」という噂話が一人歩きしてしまい、それが通説になってしまったとのことです。
では、いつから「明菜は騙された」という金屏風会見の伝説が生まれたのか。新聞・雑誌のすべてを検索システムを使い、確認したところ、2016年2月以降のこと。つい最近だ。
引用:Yahoo!ニュース
金屛風事件の動画を見て分かるように、中森明菜さんは心から謝罪をしているように見えます。
婚約会見と騙されて出席しているのであれば、あそこまで素直な対応はできないのではないでしょうか。
今日で中森明菜“自殺未遂事件”から30年、封印されていた真相に迫る
歌手の中森明菜(53)がまた消えた。明菜は体調不良のため、2010年から活動を休止し、2014年の大晦日の「紅白歌合戦」(NHK)から活動を再開したものの、2017年末のディナーショー以来、また表舞台から姿を消したまま。とはいえ、危ういところも明菜の魅力。それを広く世間に知らしめたのは、ちょうど30年前の自殺未遂事件だった。封印されていた「真相」に迫る。=文中敬称略=
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1989年7月11日夜、東京・六本木の自宅マンションに帰った近藤真彦(54)は全身の血が凍り付いたのではないか。浴室に恋人の明菜が血まみれで倒れていたのだから。
明菜は左腕の内側を刃物で切っていた。近藤の自宅で命を絶とうとしたのである。近藤は24歳で、明菜は23歳。ともに人気アイドルだったので、空前の騒ぎとなった。
「動機については当時、『所属事務所の研音との不協和音』や『家族問題』などとも言われましたが、これらは近藤へのダメージを和らげるための配慮でしょう。やはり理由は近藤との関係しか考えられなかった。当時の近藤はモテたから、いろいろな女性から秋波を送られていた。その中には明菜がライバル視していた松田聖子もいた。近藤との関係がぐらぐらと揺れ動いていることに明菜は苛立ち、不安定な状態だった」(ベテラン芸能ジャーナリスト)
二人はともに人気者だったが、収入はCDの売り上げで勝る明菜のほうが上。このため、明菜は近藤が夢中だったカーレースの経費を援助していたという。明菜は相当、近藤に入れあげていたのである。ただし、近藤のほうはというと・・・。芸能界の恋愛に限らず、若い男女にありがちな構図だった。
その後、事態は明菜が考えていなかっただろう方向に進む。幸い明菜は一命を取り留めたものの、近藤が芸能生活のピンチに立たされたのだ。
「恋人を自殺未遂に追い込んだ男」という最悪のレッテルを貼られてしまったのである。自殺未遂後の明菜は休養に入ったが、近藤もまた仕事どころではなくなった。
「明菜を復帰させなくてはならないが、近藤も活動できるようにしなくてはならない。このため、明菜の事務所の研音、所属レコード会社のワーナー・パイオニア、近藤が所属するジャニーズ事務所で話し合い、『明菜に記者会見をさせる』ということになった」(会見を生中継した当時のテレビ朝日関係者)
会見日時は同じ1989年の大晦日午後10時に設定された。「年を越さないうちに区切りをつけてしまったほうがいい」という判断からだった。また、同じ時間帯の「紅白歌合戦」に一泡吹かせたいというテレ朝の思惑もあった。
とはいえ、実はテレ朝にはほかに乗り越えなくてはならない壁があった。この時間帯はジャーナリスト・田原総一朗(85)が司会を務める討論番組の放送枠だったのだ。硬派な田原の番組が、芸能スキャンダル絡みの記者会見によって削られてしまう形になる。田原の了解が不可欠だった。
水面下で田原氏と交渉したのは当時の取締役編成局長・小田久栄門(故人)だった。「テレ朝のドン」と呼ばれた男だ。会見生中継の責任者は、後に編成本部副部長などを務める皇達也氏(78)。この人もまた大実力者だった。
テレ朝内の準備は済んだ。しかし、肝心の明菜の説得がようやく終わったのは会見の数日前。自殺未遂後は半ば隠遁生活だったので、表舞台に出たがらなかったのだ。
当時から現在に至るまで、「会見を渋った明菜がそれを最終的にOKしたのは、周囲から近藤との婚約発表だと騙されていたため」との説がまことしやかに流布されている。だが、それは到底信じられない。怪情報に違いない。
関係者は一様に明菜を騙したことを否定するし、そうであるなら辻褄が合わないのだ。報道機関でもあるテレ朝が、スポンサーを含めた社内外に対し嘘をつくわけにはいかないし、それをやったら、大問題に発展しただろう。
近藤とツーショットで行われた会見の席上の背後に、金色にも見える仕切りがあり、また、明菜と仕事上の接点があった女性がそう吹聴したので生まれた怪情報だろう。当の明菜自身はモスグリーンの地味なツーピースで、晴れがましい席の服装ではなかった。
明菜も会見でこう語った。
「皆さん、生きていらっしゃる限り、一人一人いろんな悩みを抱えていると思います。それを一生懸命がんばって、乗り越えている方が大勢いると思います。私も自分なり必死に耐えましたし、頑張ってきたつもりですけど、勝手でわがままな行動に出てしまい、ご迷惑とご心配をお掛けしてしまいました。深くお詫びいたします」(明菜の会見の言葉)
動機についての説明と近藤の部屋を選んだことの理由を求められると、こう答えている。
「私が仕事をしていく上で、一番信頼していかなくてはならない人たちを信頼できなくなってしまった。(一番信頼できる近藤のところで死のうとしたが)今になって思うと、なんてバカなことをしたのかと」(同・明菜の会見の言葉)
視聴率は瞬間最高で17%を超えた(ビデオリサーチ調べ、関東地区)。もちろん紅白の裏番組では最高だ。もっとも、前出の皇は明菜が会見場に現れるまでは不安で、「来なかったら、責任をとって辞めるつもりだった」と振り返っている。ここでも婚約発表などという嘘がなかったことが裏付けられる。
一方、やはり前述の小田は、のちに田原から「これぞテレビだよ」と告げられた。1989年で最大の芸能ニュースは明菜の自殺未遂だったのだから、それについて大晦日に伝えるのはテレビにとって本懐ということである。
さて、この会見は明菜にとっての大きな転機だった。1982年のデビューから所属していた研音を、会見直前の12月28日離れ、個人事務所・コレクションを設立したのである。明菜を大功労者と考える研音がお膳立てした。
だが、歯車は音を立てて狂いはじめていた。
会見後、明菜は近藤と没交渉に。そして近藤は1994年6月、一般女性と結婚している。
「研音は明菜をコントロールできなくっていたが、一方で新事務所もうまくいかなかった。明菜はワーナー・パイオニアの助言にも耳を貸さなくなっていた。彼女のCDはセルフプロデュースのような状態になってしまった。それでは売れない。だから、ヒット曲に恵まれないようになっていった」(元レコード会社幹部)
実際、「飾りじゃないのよ涙は」(1984年)「DESIRE―情熱―」(1986年)など明菜の大ヒット曲は自殺未遂前の80年代に集中しているのである。。
明菜を知る別の芸能事務所社長が語る。
「天才肌なので仕方がないところもあるが、厳しい指導や助言を口にする人を嫌がる。勿体ない」
一方、私生活はというと、近藤は子供も生まれて幸せに暮らすのに対し、明菜はマネージャーや神主と浮き名を流したくらい。ひょっとしたら、やはり会見が境目で、近藤との恋愛と失恋で燃え尽きてしまったのだろうか。
明菜は2017年11月、カバーアルバム「Cage」(ユニバーサルミュージック)とオリジナルアルバム「明菜」(同)を発売し、同12月にはディナーショーを行ったものの、その後は活動を行っていない。
「またコントロールできない状態になっている。日本と海外を往き来しているようだ」(前出・元レコード会社幹部)
今年5月27日には妹の明穂が52歳の若さで病死したことを一部写真週刊誌が報じた。だが、通夜や葬儀に明菜は姿を見せなかった。そもそも明菜は会見以後、家族と疎遠になってしまっている。
明菜の孤独はいつまで続くのだろう。
(動画) 金屏風記者会見 近藤真彦 中森明菜