アシタノワダイ削除動画@ホンネとタテマエ

アシタノワダイを解説・まとめ・考察する

【日本の闇】三重に実在する売春島のヤバすぎる実態を漫画にしてみた【渡鹿野島】@アシタノワダイ

f:id:neko7773:20211029175051j:plain

信じるか信じないかはあなた次第

 

【日本の闇】三重に実在する売春島のヤバすぎる実態を漫画にしてみた【渡鹿野島】@アシタノワダイ

www.youtube.com

三重県に実在する“ヤバい島”を現地取材「ショート2万、ロング4万、帰りは船着き場まで女の子が見送りに…」

「同じ風俗であっても、大阪の飛田新地だったらいろんな本が出て、ほぼ語り尽くされている。でもこの“売春島”に関しては好事家の体験談のようなものばかり。『売春の実態を調べていた女性記者が失踪した』とか『客は全員監視されている』だとか……ネット上には真偽のあやしい都市伝説があふれていた。実態がわからなかったんですよ」

 売春島――。今も公然と売春が行われ、そう呼ばれている三重県の離島、渡鹿野島について、静かな口調で切り出すのはルポライターの高木瑞穂さん(44)だ。

渡鹿野島のメインストリート。旅館や置屋が建ち並んでいたが今は閉店した店も多い(著者提供)

 ヤバい島」として長くタブー視されてきた島の実態に迫った高木さんの著書『売春島 「最後の桃源郷」渡鹿野島ルポ』(彩図社)は、ノンフィクション冬の時代といわれる中、じわじわと売れ続けている。

3年前に出た単行本は2万部を突破。昨年刊行された文庫版も5刷3万部に達するベストセラーになっている。

 夜ごと体を売る女性たち、裏で糸を引く暴力団関係者、往時のにぎわいを知る島民……。数多の当事者を訪ね歩いてきた高木さんへのインタビューから、謎に満ちた「現代の桃源郷」の真の姿が浮かび上がってきた。

 ◆◆◆

「暴力団員がいっぱい女の子を送り込んできた」

〈売春島こと渡鹿野島は三重県志摩市の東部、カキの養殖で知られる的矢湾の中央部にある。周囲約7キロ、人口200人ほどの小さな島で、渡航手段はピストン運航するポンポン船(小型船)だけ。本土から隔離された島にはスナックやパブを隠れ蓑にした「置屋」と呼ばれる娼婦の斡旋所が点在し、管理売春で栄えてきた。高木さんは文献や登記簿といった紙の資料にあたる一方、20人を超える当事者たちに直接取材して、島の盛衰を描き出している〉

――「売春島」を取材したきっかけから教えてください。

高木 最初に週刊誌の記事を書くために島を取材したのが11年ほど前です。その何年か後になって偶然、この本にも出てくる「人身売買ブローカー」の元暴力団員と知り合ったんです。その男からは「あの島には暴力団員がいっぱい女の子を送り込んできた」なんて生々しい話もいろいろ聞いていたんです。

 ただ、深く取材しようと思ったきっかけは2016年5月の伊勢志摩サミットですね。あのころ「会場の賢島の目と鼻の先に、こんな売春島があっていいのか」といった趣旨の告発風のルポが週刊誌にたくさん出た。もちろん売春自体は悪であり、許されることではない。ただ売春の従事者にもそれぞれの歴史があり、生活があるわけです。島の売春産業が凋落した今なら、暴力団のシノギ(経済活動)の邪魔にはならない。ベールに包まれていた当事者たちの声を全部聞き出せるかもしれない――と。

「売春島」と呼ばれた渡鹿野島(著者提供)

 〈渡鹿野島の売春の歴史は、じつに江戸時代にまでさかのぼる。江戸と大坂を結ぶ航路上に位置した島は、多くの船が停泊する「風待ち港」だった。島の女性たちは休息する船乗りを相手に夜伽(よとぎ)をしてはお金を稼いだ。そうして形成された遊郭は1957年の売春防止法の施行で一掃される。しかし、「稼げる島」という噂は広がり、遠方から女性たちが乗り込み、売春を斡旋する置屋文化が出来ていく〉

――1970年代後半から80年代前半にかけての最盛期には大型ホテルや喫茶店だけでなく、ゲームセンター、パチンコ屋、ストリップ劇場がひしめき合っていたそうですね。「夕方のメイン通りには、ポン引きから娼婦から客からもう、まっすぐ歩けんほどいっぱいおりましたわ」という住民の証言からは、一大レジャーランドのような繁栄ぶりが伝わります。この小さな島に売春産業が栄える特別な条件があったのでしょうか。

置屋で顔見せをする売春婦たち(2009年、著者提供)

高木 70~80年代前半にかけての最盛期には、人口200人の島に60~70人もの娼婦がいたといいます。競艇場の建設計画もあったそうです。地方の消防団なんかの慰安旅行がたくさん入ってきて、そういう団体客で島は潤ったんです。

 売春のルーツもそうでしたが、繁栄したのも地理的な理由が大きいはずです。女の子を抱えて売春を斡旋する置屋にとっては、隔離された島だと女の子を管理しやすい。客にとっては風光明媚な離島というのは非日常を味わう絶好のシチュエーション。客も限られた選択肢の中からでも必ず女の子を選ぶ。だから女の子たちはある程度の稼ぎを確実に手にすることができた。そういうバランスがあったわけです。その活況は、派遣型のデリバリーヘルスが登場して風俗業の多様化が一気に進んだ2000年ごろまで続いていきます。

ロングなら「女の子の暮らす部屋に宿泊、朝ご飯も」

――島ではどんな売春システムが受け継がれてきたのでしょうか。

高木 プレイの料金は基本、60分の「ショート」が2万円、翌朝までの「ロング」が4万円。うち半分くらいを置屋が取って、残りが女の子の取り分だったという話もあります。ただ、システムはそのように決まってはいても、女の子に「仕事、仕事」という感じはなかったそうです。

 一応、宴会に呼んだ女の子のうち、客が気に入った子と“自由恋愛”になって……という建前です。ロングの客で、旅館に部屋を取っていない場合、自由恋愛の末に女の子が暮らしている部屋に行って朝まで過ごす。だからプレイの時間も内容も実はあいまいなんですね。

売春婦たちが暮らしたアパート(著者提供)

 ロングを選択して女の子の部屋で一晩過ごした客は、そこで女の子が作ってくれた朝ご飯を一緒に食べるわけです。相手がタイの女の子だったらトムヤムクンを作ってくれる……なんて情緒あふれるおもてなしもあったようです。しかも帰るときは船着き場まで女の子が見送りに来て、「また来てね」と手を振ってくれる。つかの間のアバンチュールというか旅行気分を味わえたそうです。

最初は何も知らないで家族連れやカップルで島に来る。そこで初めて売春のことを聞いて、あとになってから1人で再訪する、という男性客も多いと聞きます。

〈渡鹿野島で売春の“手入れ”を指揮していた三重県警の警察官が取り調べをした置屋の女将と親しくなって退職。その後、売春の元締めである置屋のマスターになった、という信じられない実話もある。ほかにも島の魔力や魑魅魍魎を伝える逸話には事欠かない〉

売春婦たちが暮らしていたアパートの一室(著者提供)

 

なぜ売春する女性が島に集まったのか

――そもそもこの本は、1995年に彼氏に騙されて売春島に売られた当時17歳の少女が対岸まで500メートルを泳いで逃げた……という衝撃的な証言の紹介から始まります。事の真偽は本を読んでいただくとして、最盛期の島にはどんな女性が集まり、どんな暮らしをしていたのでしょう?

 

高木 1980年代から90年代後半にかけての時期でいえば、借金で首が回らなくなった日本人の女の子、それからホストや暴力団員になかば騙されるような形で売られてきた子が多かったみたいですね。

 取材の当初はやはり、売られた子は厳しく隔離されて借金漬けで絶対に島からは出られない――というイメージを持っていたんです。「人身売買ブローカー」だった暴力団員の話でも、女の子の買い物にも置屋のママが付いていくという。その女の子が商店に入ったらすぐに自動扉を閉めて逃げられないようにする。そこまでやるんだ、というわけです。でも実際は、バンス(借金)を置屋に払い終わった子は自由になったらしいんです。それでも90年代までは島は栄えていて結構稼げたから、借金を完済してもだらだらと居ついちゃう子が多かったそうです。

置屋のあった島の路地裏(著者提供)

 彼女たちに聞いた話だと、島の人も優しいらしいんですね。女の子が居酒屋に行く。すると男連中は「誰々ちゃん飲め飲め」みたいなノリでおごってくれる。だからお金もあまり使わないんだ、と。結局、島が売春産業で栄えることで島民は何らかの恩恵を受けている。だから女の子を大切にするのは当たり前、という感覚だと思います。これは衰退期の今になっても変わらないらしいですね。

「売春島」の現状は?

――2016年のサミットをきっかけにクリーン化の流れが加速したと聞きます。島の現在はどうなるのでしょう。

高木 風俗が一気に多様化した2000年ごろを境に、島の売春は衰退に向かいました。今はかろうじて残っている、風前の灯火ですね。今年1月現在の情報では、島で稼ぐ女の子は日本人2人、タイ人2人の計4人。島に住んでいるのはタイの女の子1人だけ。あとの3人は仕事に応じて通っている。置屋は実質2軒ありますが、いずれのオーナーも高齢です。

置屋の内部。ここで売春婦たちが斡旋されていた(著者提供)

 取材を通じてとくに印象に残っている言葉が2つあります。一つは、島で8年ほど売春しているミドリ(仮名)という女性がふっと漏らした「この海に万札垂らすと、人魚(=私たち)が食いつくんよ」というしゃれた言葉。笑みを浮かべてはいたけれど、このままこの仕事を続けていていいのかなあ……という迷いも含んだような哀愁が漂う話し方だったのが心に残っています。

 

もう一つは、置屋オーナーの女性の「もう、この島の歴史は死なしといたほうがいいよ」ってひとこと。売春を斡旋する置屋なんだから「島の浄化、クリーン化なんてけしからん!」って威勢のいい話をしてくれると思ってたのに「もうダメなものはしょうがないよ」というんです。時代が終わるとはこういうものなんだと思いましたね。

観光客を出迎える島の看板(著者提供)

 最近、「NEWSな2人」という番組で、渡鹿野島の島おこし企画があって、NEWSのメンバーが島でロケをしたんですよ。番組の放送後はファンのちょっとした聖地になって、ジャニーズ好きな女性が押しかけてるらしい。ただ、ファンの子たちが宿泊するのはNEWSのメンバーが泊まった大型ホテルのみで、ほかの旅館にはほとんどお金が落ちていない。

 離島というロケーションで、温泉があり、飯もうまい……ということなら、それはそれで観光資源です。僕としては、売春でもNEWSの聖地でもいいので、島民たちが一つになり、島全体が平等に潤ってほしいと思っています。

bunshun.jp

売春島を追ってみる! 禁断の離島 『渡鹿野島』の都市伝説を真剣に掘り下げる!

 あなたは、日本のどこかに『売り島』というものがあるのをご存じだろうか?いわゆる男性が買い客としての“売り”である。

実は、その都市伝説化したうわさは本当に存在するようだ。

その島は、三重県の伊勢志摩国立公園内にある『渡鹿野島(わたかのじま)』である。

平成も終盤に差し掛かった現代、そのような不届きな場所が存在するのがおかしいかもしれないが、今回はその一風変わった“観光地”を掘り下げてみることとする。

渡鹿野島の概要

 

■人口はたった300人程度の小さな漁村

 
渡鹿野島(わたかのじま)は、三重県志摩市(旧志摩郡磯部町域)にある島。伊勢志摩国立公園内にある。


島の大半は志摩市磯部町渡鹿野(いそべちょうわたかの)である。郵便番号は517-0205。人口は271人(2011年9月30日現在、志摩市調べ)。

周囲約7km、面積は約0.7平方キロメートルを持ちリアス式海岸の湾のひとつ的矢湾の奥に位置し、的矢湾深部の外海から隔てられた島の西側海域は波が穏やかな海面となっている。そのため古くより荒天時の避難場所・風待港として使われていた。
島内の住所は大半が志摩市磯部町渡鹿野であるが、一部に磯部町的矢の飛び地(小字間神・居森)がある。

渡鹿野島は 100戸余り 海上神輿が終わると
街に繰り出し 各戸を回り 悪霊疫病祓いをする

出典: blogimg.goo.ne.jp

■風光明媚な島の主な産業は『観光』


 観光が主な産業であるため2000年(平成12年)の国勢調査に見られるように、島の人口の92%が島内及び島外の宿泊・飲食業(第三次産業)に従事している。海水浴やスペイン村の宿泊地として家族連れや団体に利用されるとしているが・・・。

風待ちの港として栄えたこの地で、当時の賑わいを、そして旅の疲れを癒やすやすらぎを楽しんでいただきたいとの願いで、この湯は「風待ちの湯」と名付けられました。日帰り入浴も可能ですので、海水浴の後にもおすすめ。

出典: onsen.jal.co.jp

この島の一部の旅館に泊まると無料でこのサービスがついてくるらしい。

観光用のホームページでは、

“的矢湾花火ナイトクルーズに無料でご招待しています。7月中旬から8月末までの夏休み期間、リゾート施設、志摩スペイン村から打ち上げられる花火を船の上からゆっくり観賞。
一生忘れられない贅沢な時間を、ご家族やお友達とお楽しみ下さい。”

とうたっている。

出典: watakano.ryotenya.jp

この島を紹介しているホームページによると、

“渡鹿野島(わたかのじま)は三重県志摩市、伊勢志摩の中心に位置し、離島風情と人情を今でも感じられるハートのかたちをした小さな島です。
渡鹿野島の人口は約270人。こども達は渡鹿野島の島外の学校へ通います。大自然の癒やしと安らぎを求めて、年間3万人以上の観光客が渡鹿野島へ訪れます。また、伊勢志摩の主要観光施設へのアクセスが良く、ご家族やご夫婦での旅行、宿泊にも渡鹿野島は最適です。”

とつづっているように、景色がよく近隣の名高い観光地へのアクセスの良さもうたっている。

■渡鹿野島への交通


 【電車】
・大阪・京都・名古屋から近鉄線にご乗車いただき、志摩市の中心「鵜方(うがた)駅」で下車します。

・「鵜方駅」から三重交通バス6番のりば「渡鹿野渡船場経由安乗(あのり)行き」にご乗車いたき、「渡鹿野渡船場」で下車します。

・バス停の目の前が渡船場となっています。船は常に島と本土を行き来しています。
車いすの方、介助が必要な方は事前に旅館などへご連絡いただくとスムーズです。


【車】
・伊勢自動車道または国道23号線を利用して伊勢方面へ。

 伊勢から伊勢道路、または第二伊勢道路を利用して鵜方へお越しください。鵜方から標識に従って5分ほど進むと、渡鹿野渡船場です。駐車場を各旅館へお尋ねください。


参照:http://www.watakano.net/access.html

渡鹿野島の歴史は古くからある

■撮影にもよく使われていた渡鹿野島


 古くは伊雑宮の神領であったとも言われ、江戸時代には、江戸と大坂を連絡する菱垣廻船・樽廻船が増えたこともあり避難・風待をする港としての重要性が高まった。船乗りなどのための宿のほか、風待ちの船乗りを相手とした、把針兼(はしりがね)と言われた水上遊女なども集まり、遊郭街としても大いに栄え女護ヶ島といった別名を持つこととなった。史跡としては江戸時代に灯台に使われた石柱などがある。


1931年に俳優の上山草人が映画「唐人お吉」の撮影で訪れ、島民と意気投合。草人の別荘を建てる話がまとまり、島から寄贈された大日山頂の別荘の門には、谷崎潤一郎が書いた「草人漁荘」という竹の表札が掲げられた。草人はこの島を東洋のモナコにすると意気込み、「文壇、画壇、劇団のあらゆる友人を誘って、猟奇的なこの島でなければ味わわぬ変わった情趣をもつエロ探検と波静かな絵画美に富んだ島の風景を満喫させようと計画している」と語ったが、門と亭のみで別荘は建たなかった。


第二次世界大戦中は島内に予科練の基地の設置が計画された事などから、激しい空襲にもみまわれた。 1954年にはこの島を舞台に、伴淳三郎主演の「この恋!五千万円」という映画もつくられた。

元警官が尽力した『売りの島』

 発見!意外に知らない昭和史: 誰かに話したくなるあの日の出来事194(歴史雑学探偵団 東京書店 2007年の123ページにあるとおり、1971年に三重県警警部補が内偵特捜の捜査官として島に潜入し、売春婦の女性と内縁となり諭旨免職される。

その後は島でスナック経営者兼売春斡旋者となっていたが、1977年10月に実施された手入れで内妻とともに逮捕されて、売春婦が保護されている。

このとき保護された売春婦は大半は家出少女などで、借金付きで送られ売春をさせられていたという。なお、この元警部補は出所後、島でホテル経営などに携わり、島の観光産業の発展に尽力していく。

上記のような流れがあるものの、あまりにも『性産業』として名高くなったしまった為、2013年9月、わたかの島観光協議会は、志摩市や三重県警と連携し、「性産業による島のイメージを無くし、健全な観光地を目指す」とした「渡鹿野島安全・安心街づくり宣言」を出した。と、しているが、果たしてその実情は・・・・。

■ネット上に、この島のとある体験記があったのでその一部を紹介しておく。

 一度は行ってみたかった渡鹿野島。

そこは三重県志摩湾に浮かぶ、知る人ぞ知る売春島――。どうせ満喫するなら1週間ぶっ続けで楽しみたい。そんな衝動に駆られて、仕事を放り出してなけなしの貯金を手に、いざ売春島へ。

数年前にはビーチが完成し家族連れで賑わうようになったとの情報も。もしや売春は摘発でなくなったのか? 焦りにも似た感情を抱きながら新幹線で名古屋へ。そこから特急電車に飛び乗り約2時間半で鵜方に到着。

さらにそこからバスに揺られて30分のところにある船着場へ。ポンポン船に揺られて渡鹿野島へ上陸したのは夕方頃だった。
もちろんホテルなど予約していない。海を臨めるホテルの受付に飛び込みで行くと、笑顔で応対してくれた。
「お一人ですか? え~、団体さん用の部屋しかありませんけど、よかったら泊まっていってください」
と広さ10畳ほどの部屋に案内される。夕食つきで1泊1万円ジャスト。
しかし10畳の部屋に一人とは何とも心さびしい。
なんでもひと昔前は、この島に来るのは女目当ての団体客ばかり。
昼から温泉、酒に浸り、夜は女を買って、深夜はマージャン大会。
「飲む、打つ、買う」に興じる土建屋のオジサンたちの姿が目に浮かぶ。

しばらく部屋で横になって日没を待つ。そう、この島の名物ともいうべき置屋がオープンするまで少し時間があった。

江戸の時代から風待ちの船乗りたちで賑わった渡鹿野島。
昼間は健全な観光リゾート地。しかし日が暮れると通りには怪しいネオンがまたたき、置屋の娘たちが春を売る。それがこの島の本来の姿といっていいかもしれない。

ふらりと入った居酒屋で知り合った事情通がこんなことを教えてくれた。
「ちょっと前まで警察の摘発を危惧する声もあって、イイ子はみんな大阪や京都の置屋街に行っちまった。外国人もだんだんいなくなった。昔はタイにロシアにフィリピンに、世界各地からイイ女が集まってきたんだけどね。最近はもっぱら借金を抱えた人妻ばかりかな」
居酒屋を出て渡鹿野のメインストリート(といっても30メートルくらいしかないが)に繰り出す。

通りで客を引いていた婆さんに話しかけてみる。
「もう遊べる?」
「あ~、うちは日本人ばかりだから安心だよ。遊んでいくかい?」
お値段はショートで2万、泊まりで4万。さっそく置屋に連れていってもらう。

スナックのような店には50代のママ。そして20代から30代の女性がズラリ。
「若さで選ぶならタイ人、サービスで選ぶなら日本人」 先ほど会った事情通の言葉を思い出しながら、さんざん迷った挙句、目鼻立ちのハッキリしたタイ人女性を指名し・・・・。



この後は、元記事を参照してください。

■往年の時代には一世を風靡したとも・・・。


渡鹿野島は、江戸時代以前より存在し、漁業で賑わう島だったという。江戸と大阪を結ぶ海路上にあることもあり、船乗りたちが風を待つために立ち寄ることが多かった。島の人々は、8人ほどが乗れる小舟「はしりがね」で停泊する帆船に近づいて、娼婦が男たちの相手をすることから、そのまま娼婦たちのことを「はしりがね」と呼んだそう。

 島と対岸が船で埋まるほどの人の往来があったそうだが、明治になると、蒸気船が登場し、風を待つ必要がなくなった。娼婦たちは次第に姿を消していく。多い時は島に350人ほどいて、一晩で何百万と稼いだとされる渡鹿野島の娼婦は、現在は18人とされる。ほとんどがタイなどの東南アジアの女たちだ。彼女たちは、紛れもなく1970年代に現れた“じゃぱゆきさん”の名残だ。

参照:『娼婦たちから見た日本』(角川書店)より

■他にもこの島を訪れた体験談



 上記の話のように、渡鹿野島が生まれ変わったかというと、決してそうではない。最近、渡鹿野島を訪れた50代の男性がいう。

「サミット開催地決定のニュースを見て伊勢志摩の観光地を調べていたら『売春島』という言葉を見つけて興味を持ったんです」

 近鉄鵜方駅からバスで20分ほどで渡船場に着く。島まで船でわずか3分で、運賃は片道180円。男性は午後4時過ぎに乗船したが、平日だからか着いた港に人影はまばらだったという。

「ネットには『島に着いたら客引きがわっと寄ってくる』と書き込みがあったので拍子抜けしました。島民の男性に聞いたら『3年前から客引きは一切いなくなった』ということです」

 宿にチェックインすると、夕食時間を確認された後に、女将が「ところで、お遊びのほうはいかがしますか? どんな子がいいですか?」と尋ねてきた。料金は、ハーフ(50分)が2万円、延長が50分毎に2万円、フル(23時~翌朝7時)が4万円だという。


どんな女性がいるのか女将に問うと、

「約30人のうち、ほとんどがタイ人で日本人は3人くらい。フルは近所のスナックで女の子と一緒に飲んで仲良くなってから部屋に行くんですけど、ハーフだと会っていきなりという感じになりますからねぇ……」

 と説明した。女将によればほとんどの客がフルを選ぶというが、複数の女性との出会いを優先した男性はハーフを選択し、タイ人の女性を希望した。

 夕食後に2万円を女将に支払うと、数軒隣へ案内された。数戸の部屋がある2階建ての建物で、部屋のドアを開けると30代後半に見えるタイ人女性が待っていた。ワンルームで、テーブルやテレビの他は一組の布団が敷いてあるだけ。壁にはタイ国王の肖像画が掲げられており、その部屋で生活しながら客をとっているようだった。

 女性は片言の日本語で男性にこう話した。

「この島に遊びに来るお客さんは60歳以上の人がほとんど。みんなお酒を飲んで部屋に来るので、布団の中でイチャイチャするうちに寝てしまう。だからとってもラク(笑い)。でも中には乱暴に扱う人もいるから怖い思いをすることもある」

 日々の出来事については饒舌に語ったが、家族構成や島で働くきっかけを尋ねると女性は言葉を濁した。

出典:週刊ポスト2015年6月26日号

現在でも残るしきたりも・・・。

■それはそれで、その筋でのルールがあるらしい。


※あくまでもイチ意見としている事をご了承ください。

●料金について


・ショート(2時間←置屋によっては50分とも。):大2 
・オールナイト(23時から翌朝8時半まで):大4
・いかなる場合もディスカウントは出来ない。

・商談が成立したらその場でオールなら大4をやり手婆に支払う。完全前金。

・宿を取っている場合、別途宿代がかかるが、2食付きで大1程度。対岸の船乗り場との往復は旅館所有の船で送迎してくれるので無料、駐車場も宿泊客は無料。

・宿を取っていない場合、民間の渡し船を利用。(片道150円/1人)※夜間18時以降は別料金で最大500円まで上がるシステム。対岸に駐車場がないため車で訪問の際は路駐する。宿代はかからないがチェックインから23時まで時間を潰す場所がない。夕食代も別途必要。

●桶屋


・置屋によって女の子の質も国籍も異なるが、容姿レベルは総合的に下、年齢層も高く20代はほぼ皆無。国籍はタイが多い。

・それぞれの置屋によって得意分野が違う。外国人しか置いていない置屋もある。

・つたや→峰席、青い鳥(日本人のみ)
・寿屋→樹々(カラオケスナック)
・福寿荘系→再会ビルのスナック南国(良質)
・浮島→恋の坂(純粋な二次会?)

●その他の注意事項


・最初に声をかけたやり手婆に斡旋の権利が発生するという島のルールがあり、他の者は下手に動けない。

・旅館に宿を取っていても客室に女の子を呼ぶことはできない。基本女の子のアパート兼プレイルームとなる部屋に泊まる。

・つたや系列だと宿泊は女の子の家ではなく近隣のビジネスホテル。1階が置屋で3・4階の部屋がプレイルーム兼宿となる。布団ではなくベッド。

・宿を取っていない場合は必然的に民間の渡し船で島に渡ることになるため、男性のみで乗船すれば黙っていても運転手のおっさんが声をかけてくる。船着き場までの僅か3分ほどの間に島内のやり手婆と携帯で連絡を取り合い、到着すると婆が出迎えてくれるという段取りの良さ。その間無駄な動き一切なし。

・23時(場合によっては22時)に姫が宿に迎えに来る、それから姫とともに置屋に向かう。

・姫取りは早いもの勝ち、16時くらいに島に上陸し押さえた方がいい。16時~23時は暇なので旅館を取ったほうが寛げる。

・殆どの旅館がコンパニオン宴会プランを取り扱っているが、
旅館が提供するのは宴会場での一次会まで、二次会は外のスナックに移動。客室にコンパニオンが入ることは原則禁止。

・渡鹿野島の2大旅館、1つはつたや、もう1つは福寿壮。後者の系列は家族連れや女性客に人気で宿代も割高。島遊びが目的で旅館を通すなら→つたや・寿屋が定番。

________________________________


 以上が、都市伝説化したこの島の実情です。

どういった“目的”でこの島を訪れるかは個人の自由だが、あまりにもその方面での名が売れているだけに、いろいろ気を付けなければいけ事もあるだろう。

最後になるが、この島の観光ビデオがあったので載せておく。

matomake.com

f:id:neko7773:20211101110108j:plain