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市川一家4人殺害事件(いちかわいっかよにんさつがいじけん)は、1992年(平成4年)3月5日夕方から翌6日朝にかけ、千葉県市川市幸二丁目(行徳地区)にあるマンションで発生した強盗殺人事件(少年犯罪)
【市川一家4人殺害】あいうえお@アシタノワダイ
市川一家4人殺害の関光彦死刑囚らの死刑執行 犯行当時未成年は永山則夫元死刑囚以来 法務省
法務省は19日、千葉県市川市で一家4人を殺害したなどとして、強盗殺人などの罪に問われた関光彦死刑囚(44)=犯行当時(19)=と、群馬県安中市で親子3人を殺害した松井喜代司死刑囚(69)の死刑を執行したと発表した。関係者によると、関死刑囚は再審請求中だった。犯行当時未成年の死刑執行は永山則夫元死刑囚=平成9年執行、当時(48)=以来となる。
死刑執行は7月以来。第2次安倍政権下での死刑執行は計21人となった。19日時点の未執行の確定死刑囚は、再審開始決定を受けて釈放されている袴田巌さん(81)を除き122人となった。
確定判決によると、関死刑囚は平成4年3月5日、別の事件の被害者だった少女の家である千葉県市川市のマンションに押し入り、祖母=当時(83)、父親=同(42)、母親=同(36)、妹=同(4)=の4人を次々に殺害。貯金通帳を奪うなどした。
松井死刑囚は6年2月13日、交際していた女性=当時(42)=とその父親=同(69)=と母親=同(65)=をハンマーで殴り殺害するなどした。
【おことわり】産経新聞は原則として、犯行当時未成年だった事件は少年法に照らし匿名としてきました。しかし、関死刑囚については死刑が執行され、更生の機会が失われたことから実名に切り替えます。
市川一家4人殺害事件
市川一家4人殺害事件(いちかわいっかよにんさつがいじけん)は、1992年(平成4年)3月5日夕方から翌6日朝にかけ、千葉県市川市幸二丁目(行徳地区)にあるマンションで発生した強盗殺人事件(少年犯罪)
少年S・T(以下「S」、事件当時19歳)が3月5日夕方、会社役員の男性A(当時42歳)宅に侵入し、翌朝までに一家5人のうち、4人を次々に殺害した。
Sは2001年(平成13年)12月に最高裁で死刑判決が確定し(少年死刑囚)、2017年(平成29年)12月19日に東京拘置所で死刑を執行されている(44歳没)。
10歳代の少年による残忍な犯行として社会に衝撃を与え、その重大性から少年法の在り方などに論議を呼んだ事件でもある。
概要
犯人の少年S(事件当時19歳)は、暴力団と女性関係を巡るトラブルを起こし、現金200万円を要求されたため、その金を工面する目的で、3月5日夕方に雑誌出版・編集会社役員A(当時42歳)宅へ侵入。
留守番していたAの母親C(83歳)に金品を要求したところ、警察に通報されそうになったことから電気コードで絞殺し、次いで帰宅してきたAの妻D(36歳)、A本人、次女E(4歳:保育園児)の一家4人を相次いで柳刃包丁で刺殺したほか、長女B(当時15歳:高校1年生)も包丁で斬りつけて負傷させた。
この間、SはBを連れ出し、A夫妻が経営していた会社にも金品を奪いに行ったほか、Bを現場の一室や、連れ出したラブホテルで複数回にわたって強姦した。
翌朝、Sは現場に駆けつけた千葉県警の警察官により、銃刀法違反で現行犯逮捕されたが、その直前には抗拒不能状態に陥っていたBに包丁を持たせた上で、彼女が犯人であるかのように偽装工作した上で逃走しようとしていた。
Sは逮捕直後の取り調べでも容疑を否認し、「Bとは事件前から親しかった」と虚偽の供述をしたが、同日夜になって犯行を認め、強盗殺人容疑で逮捕された。
SがA宅を知ったきっかけは、本事件の約1か月前(同年2月12日)に自転車で夜道を走っていたBを車で轢き、自宅アパートに連れ込んで強姦するという強姦致傷事件を起こした際、Bの持っていた生徒手帳を見たことがきっかけだった。
Sはその事件に前後して、1991年(平成3年)10月19日 - 1992年2月27日にかけ、東京都や千葉・埼玉の両県で、別の行きずりの女性1人に対する傷害・強姦事件(強姦事件)や、車の運転中に先行車が遅かったことや、後続車からあおり運転をされたこと、後続車に追い越されたことなどに立腹し、相手の運転手を暴行して負傷させる傷害事件3件(うち2件目では恐喝、3件目では窃盗を伴う)を起こしていた。
刑事裁判で、被告人Sは4人に対する強盗殺人罪(判決ではEへの殺害行為のみ殺人罪と認定)、Bに対する強姦致傷罪・強盗強姦罪・傷害罪のほか、余罪事件での傷害・強姦・恐喝・窃盗の罪にも問われた。
事件当時のSの責任能力、そして当時少年だったSへの死刑適用の可否が争われたが、1994年(平成6年)8月8日に千葉地裁は、Sの完全責任能力を認定した上で、1983年(昭和58年)に最高裁が示した死刑適用基準を引用し、「結果の重大性から、死刑はやむを得ない」などとして、Sを死刑とする第一審判決を宣告した。
Sは控訴したが、東京高裁は1996年(平成8年)7月2日に原判決を支持し、Sの控訴を棄却する判決を宣告。
Sはさらに最高裁へ上告したが、2001年12月3日に第二小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、同月21日付で死刑が確定。
それから約16年後、死刑囚Sは第3次再審請求中の2017年12月19日に東京拘置所で死刑を執行された。
犯行時少年に対する死刑確定・執行は、いずれも永山則夫(連続ピストル射殺事件の犯人)以来だった。
Sが犯行時少年だったことから、死刑判決が言い渡された際には新聞各紙で死刑制度や少年法に関する論議が活発に交わされたが、犯行内容の凄惨さや、犯人S・被害者双方の人権への配慮などの事情が絡まり、犯行内容はほとんど報じられなかった。
一方、『週刊新潮』『FOCUS』(ともに新潮社発行)は事件発生直後、Sを実名報道した。
また、死刑執行時には法務省(法務大臣:上川陽子)がSの死刑執行を実名とともに公表し、新聞各紙もSを実名報道した(後述)。
作家の永瀬隼介(祝康成)は事件後、犯人Sの交流や、事件関係者(被害者遺族や、犯人Sの親族ら)への取材を行い、本事件を題材としたノンフィクション『19歳の結末 一家4人惨殺事件』(「参考文献」の節も参照)を出版した。