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- 神仏分離令とは|目的や廃仏毀釈の悲劇を解説
- 神仏分離とは
- 神仏分離令の目的|明治政府はなぜ発布したのか
- 神仏分離令と廃仏毀釈運動
(実話)死刑執行された男が生き延びたら再度死刑になるのか(マンガで分かる)@アシタノワダイ
石鐵県死刑囚蘇生事件
石鐵県死刑囚蘇生事件(せきてつけんしけいしゅうそせいじけん)とは、明治時代初期の石鐵県(現在の愛媛県)で絞柱による死刑執行から死刑囚が蘇生した事件である。別名を「田中藤作蘇生事件」もしくは生き返った死刑囚ともいう。
事件の概要久米郡北方村(現東温市)の農民田中藤作(当時31歳)は、一揆の際に放火したとして1872年11月28日に松山高石垣(現在の松山市藤原町)の徒刑場で執行された。当時の慣習では死刑囚の遺骸は引き取り手がなければ腑分け(解剖)されることになっていたが、藤作は親族が引き取った。徒刑場から1里(約4Km)ほど運んだところで藤作の棺桶からうめき声が聞こえたため、蓋をあけたところ藤作が蘇生していた。藤作は村に生きて戻ってきたが、村人は石鐵県の聴訟課に蘇生の事実を届出、今後についての指示を仰いだ。江戸時代の刑罰では死刑囚の身体を破壊するものであり、生き返るという前例がなかったため県では処刑を担当した役人3人の進退伺いとともに中央に対処方法の指示を仰いだ。中央政府から指示が届いたのは翌1873年9月であるが、その文章は「スデニ絞罪処刑後蘇生ス、マタ論ズベキナシ。直チニ本本籍ニ編入スベシ」というもので、生き返ったとしても既に法に従い刑罰としての執行は終わっているのだから、再び執行する理由はない、よって戸籍を回復させよというものであった。これは革命前のフランスでは絞首刑で稀に蘇生した死刑囚がいたが、この場合国王が赦免した事例があったことが参考とされた。なお県の役人については検死に問題なかったとして処罰なしとなった。なお、藤作は26年後の1898年まで生きたとされるが、4年後には死亡したという話もありいずれかははっきりしない。ただ藤作は一時的に仮死状態になった後遺症のためか、精彩を欠き小さな小屋で孤独な生活をしていたという。なお彼の墓は墓石がなかったため竹薮の中の何処かにあるという。
神仏分離令とは|神仏分離の目的や廃仏毀釈等への影響をわかりやすく解説
神仏分離令とは|目的や廃仏毀釈の悲劇を解説
神仏分離令とは明治初頭に神道と仏教という日本に根付いた宗教を分離する目的で出されたお布令の総称(もしくは神仏判然令のこと)です。
神仏分離令によって現在の日本の神道と仏教と言う明確に区別された宗教が生まれるのですが、神仏分離令が発布される前は神道も仏教も区別されるようなものではない、神仏習合(神仏混淆)という時代がありました。
今回は、日本の神様・仏様という考え方を大きく変えた神仏分離令についてや、その神仏分離令の影響を受けた寺社の例をご紹介します。
神仏分離令は神仏判然令を意味するか
神仏分離令は、最も有名な「神仏判然令」を意味すると理解されています。
ただ、神仏判然令以外にも、神祇官という神道を中心とするための組織作りなど様々な動きもありそれらも含めたものと言う理解もあります。
神仏分離令をわかりやすく説明するために
神仏分離令とは発布した明治政府の祭政一致などの政治的な目的や徳川の時代の否定など様々な理由が複雑に混ざったものです。
神仏分離令について分かりやすく解説するため、それらの目的などを大まかに解説するものですので、詳しく知りたい方はそれらを解説した本や論文をご覧ください。
それでは神仏分離令についてご紹介していきますが、まずは神仏分離令が発布された当時の時代背景についてご紹介していきます。
神道と仏教が独自に織り交ざり文化を醸成した歴史について、そして神仏分離令が発布される前からあった神仏分離を行った例などもご紹介します。
神仏分離とは
神仏分離とは実は明治の初期に発布される「神仏分離令」以前の江戸時代から見られる思想です。
ちなみに江戸時代以前にも神仏分離のような政策も見られますが一般には江戸時代に興隆する考え方とされます。
神仏分離の考え方は簡単に説明すると以下のようになります。
日本には土着だった信仰(後に神道と呼ばれる)があったのですが、仏教が伝来したとされる6世紀ごろからどんどんと互いに影響をし合うようになります。
この仏教の影響を受けていない日本に土着だった信仰である本来の姿の神道(=復古神道)を明らかにしようとすることが神仏分離の考え方です。
今では神社と寺院は分けられていて、
- 神社:日本古来の神様が祀られる
- 寺院:インド発祥で中国,朝鮮半島からもたらされた仏や仏教の神(天部)を祀る
このように考えられていますが、そもそも江戸時代以前には区別されておらず神社の中に寺院があり、仏教寺院の中に日本の神様が祀られていました。
神仏習合の時代
日本では神道と仏教が混ざりあった結果、神様と仏様は別々ではなく、実は同じものと考える説も存在しました。
その例が以下のものです。
- 神身離脱説
実は神様も苦しみを抱えて生きていて仏様になりたいとする考え- 本地垂迹説
日本の神様は、仏様が人々を救うために変身した後の姿であり、本来の姿は仏様という考え- 反本地垂迹説
本地垂迹説への神道側からの反論で、日本の神様が最も尊い存在とする考え上記のように神道と仏教を理解するための様々な思想が生まれます。
ただし、これは知識人階級の中の話で、一般の人では、「神様仏様」と言って自分たちの生活を救済してくれるありがたい存在という考えでしかなかったとされます。
神仏習合についてはこちらでさらに詳しく解説しています。
神仏習合とは(=神仏混淆)|歴史・現在も影響の残る神社寺院の例をご紹介
神仏分離の思想の醸成(国学や水戸学等)
上記のように神様と仏様は一緒だと考えたりするなど、混ざり合っていたのですが、日本本来の文化についてや日本の宗教についてを研究する動きが江戸時代に広がります。
本居宣長に代表される国学と言うものです。
本居宣長の弟子の平田篤胤はさらに日本に古来からある神道の姿を求め研究を重ねます。
平田篤胤の研究の影響は現在古神道と総称される、仏教以前の神道の姿を求めた宗教にも見られるなど、大きなものがあります。
ただ当時の神仏分離の思想もまた知識人階級の話で、一般人の生活にまでは影響は与えませんでした。
古神道という概念についてはこちらで詳しくご紹介しています。
神仏分離令の前にも神仏分離はあった
一般には神仏習合が続くのですが、明治以前にも神社や宮中においては神仏分離の政策が行われた例はあります。
出雲大社の三重塔
出雲大社は古来から伊勢神宮に並び、古くから信仰を集める神社ですが、神仏習合の影響から境内には三重塔といった寺院の建物があったり、神前読経と言って神様の前でお経を読んでいた時代がありました。
しかし江戸時代に、仏教にまつわる建物や、道具、祭祀などは排除されることになります。
神仏分離の政策によって出雲大社の境内にあった三重塔は兵庫県の寺院に移されたそうです。
宮中祭祀の仏教色の排除
国家神道の成立により、明治期に仏教色が完全に配された宮中ですが、それ以前にも幾度かの神仏分離ともいえる動きがありました。
「神仏隔離」という方針がとられた、奈良時代や平安時代など古くから仏教色を排除する動きもありました。
しかし、完全な分離はせず宮中には仏教の影響が残り仏式の葬式が行われていました。
このような流れの中で、新たな政府を樹立した明治政府が神仏分離令を発布したのはなぜなのでしょうか。
神仏分離令の目的|明治政府はなぜ発布したのか
明治政府が発令した神仏分離判然令を含む、神仏分離に関わる法律の数々、その目的はそれを起草した人々の思想の中に垣間見えます。
津和野藩の藩主亀井茲監、福羽美静らが主導となって、神仏分離令と呼ばれる種々のお布令が出ます。
その目的は以下のものであったと考えられます。
- 祭政一致・国家神道の確立
国家をまとめる宗教の体系化、国家を精神的に一つにまとめる(神仏判然令の数日前に布告されたものにも見られる)- 徳川の時代の否定
徳川幕府の時代に人民の管理をする役所のような働きをしていた寺院からの支配権の奪取や、思想的な改革明治政府が動き出したときは、西欧列強に負けないように、国をまとめ上げる為に行ったと考えられています。
ちなみに、神仏分離令を代表として仏教を排除する動きが有名ですが、明治政府は明治初期キリスト教等の排除もしようと動いていました。
その動きは神仏分離令の後に出された「大教宣布の詔」や「修験道禁止令」に見られます。
大教宣布の詔
これは国家神道を確立するための法律です。
明治政府は神仏分離を進めるために、神祇官と言う神道の宣教師達による神道の国民への教化を推し進めます。
修験道禁止令や天社禁止令も
他にも、仏教色の強く呪詛要素の強く非科学的な修験道を禁止したり、神道や仏教にも影響を与えていた、天文や暦を担っていた呪詛的要素も持つ陰陽道も禁止します。
これらは民間にも広まっていた、前近代的な呪いや悪霊退散などを払しょくし、近代化を進める目的で行われた施策です。
神仏分離の政策
神仏分離令前後からの動きとその結果について簡単にまとめます。
- 神祇省を設立し、国家神道を確立するための神道の宣教師の組織作り等を行う。
- 神仏分離令によって、神社内の仏教に関わる建造物、仏像、祭祀に用いる道具、経典を破棄する
- 神道では「死」を穢れとして行っていなかった葬式を神式でも行うようにするなど、仏教行事を神道に含める
- 寺請制度(檀家制度)を廃止し氏子という神社中心の地域社会作り
- 仏教寺院の持つ寺領を接収
- 社僧の還俗化や神祇官への変更
- 神社で祀られるご祭神の中で仏教色のある神様の名称の変更
などなど、あらゆる面で仏教側が持っていたものを奪う政策を行いました。
神仏分離令の結果
神仏分離令に端を発し、その他にも神道を中心とした国造りを行おうとした明治政府でしたが、結果は失敗に終わります。
失敗に終わっただけでなく、日本の寺社にあった莫大な量の貴重な文化財がほんの数年で失われました。
仏像、建造物、経典等々、後世に蛮行と言われる考えられないような破壊を繰り返したのです。
これにより寺院は半数が日本から消えたと言われ、残った寺院でもその規模は大きく縮小したものがほとんどでした。
また、神道を国民全体に布教しようとして設立した神祇省でしたが、うまく進められず結果的には数年で廃止し、代わりに仏教側の手助けを借りて設立した大教院・教部省ができますが、それもすぐに廃止され国家神道を国民に行きわたらせることは失敗します。
仏教界からの手助けというのは浄土真宗の島地黙雷を代表する仏教僧達の活躍のことで、彼らの力もあって仏教の権威は再興します。
神仏分離令と廃仏毀釈運動
神仏分離令に端を発するとされる、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)という日本の貴重な文化財を破壊したことについてご紹介します。
神仏分離令が政府から出されるやいなや、市民や神官などが仏教にまつわる様々なものを破壊する廃仏毀釈運動が全国で広まります。
写真はお地蔵様の頭を落としたものです。
廃仏毀釈は地域によってその激しさが違い、それらは藩の中の考えが違ったためであったり、寺請制度によって財政的に苦しんできた市民の仏教への復讐感情の差などがあります。
三重塔や五重塔が数十円で売られる(事実かは不明)
廃仏毀釈で最も有名な逸話に興福寺の三重塔や五重塔の話があります。
興福寺は春日大社の神宮寺と言う、神仏習合の中で生まれた神道と仏教の混ざる寺院です。
その興福寺では、僧侶が全て春日大社の神官になり、寺領は召し上げられ、寺内の建物や仏像が破壊されました。
そしてその極めつけに三重塔が30円、五重塔が250円(25円という説も)もの値段で売却されたという噂もありますが、こちらは興福寺側でも真偽のほどはわからないとしています。
※この当時の円の価値は今よりも相当に高いので、今の貨幣価値の25円ではありません。しかし日本でも最古級で最大の仏教寺院の興福寺の五重塔につけられる金額にしては安すぎるものとされます参考:興福寺の歴史
興福寺の例はあくまで一例で、日本の名だたるお寺が神仏分離令を楯にした、廃仏毀釈の憂き目に遭います。
日本仏教最大の勢力でもある比叡山延暦寺では、神仏習合の時代に生まれた日吉大社(当時は日吉山王社)に押し入った人々が仏像に弓を引くなどもあったとされます。
他にも、神社境内にあった五重塔が取り払われると言った神社も多く、徳川家康を東照大権現と呼び祀る久能山東照宮では五重塔が失われます。
神仏分離令が与えた影響
神仏分離令が与えた影響はお寺だけではありません。
八坂神社はご祭神の名称が変わる
日本各地の八坂神社の総本宮である京都祇園にある八坂神社では、江戸時代以前は牛頭天王という神様が祀られていました。
この神様の由来には諸説あるのですが、仏教の経典にも出てくる神様であることから、ご祭神の名前を変え現在ではスサノオノミコト(素戔嗚尊)が祀られるようになります。
ちなみに神仏判然令の文面にも、「牛頭天王」の表記は見られるほど日本では知られ、信仰されてきた神様でした。
他にも弁財天を祀っていた寺院は神社に強制的に変えられたり、ご祭神を宗像三女神やイチキシマヒメ(市杵島姫命)に替えられるなどが見られます。
廃仏毀釈については、さらにこちらで詳しく解説しています。
廃仏毀釈とは|意味やなぜ起きたのか,原因/背景・京都の事例等を解説
現在でも神仏分離以前の姿が見られる寺社
日本では多くの神社や寺院が神仏分離令や廃仏毀釈の影響を受けました。
しかし、そんな今でも江戸時代以前の神仏習合時の姿を残す寺院があります。
鳥居のあるお寺
「ここから先は神様のいらっしゃる地」を意味する鳥居は神社にあるものですが、神仏習合時代は寺院の中にも神様が祀られていたので厳密には分けられていませんでした。
現在では珍しくなった鳥居がある寺院の例として、奈良県にある宝山寺が有名です。
山門の前に立派な鳥居があり、山門をくぐってご本堂の前にも立派な鳥居があります。
三重塔のある神社
出雲大社の境内にあった三重塔は兵庫県の寺院に移されたご紹介しましたが、現在では兵庫県の名草神社にあります。
他にも、神仏習合の色を濃く残す日光東照宮では五重塔が境内にあります。