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(漫画)死刑より重い極刑!?島流しになった人たちの実態を漫画にしてみた(マンガで分かる)

信じるか信じないかはあなた次第

注意)いつの時代も死刑が極刑です。

 

 

(漫画)死刑より重い極刑!?島流しになった人たちの実態を漫画にしてみた(マンガで分かる)

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死刑よりも過酷だった!? 関ヶ原合戦西軍の副将も味わった島流しの地獄

 

「島流し」と聞いて、どんなイメージが浮かぶでしょうか?

おそらく、謀反のような重罪を犯したものの、死刑は免れるかわりに小島に送られ、そこで生涯を全うする―こういった印象を持つ人が多いでしょう。

そこでの生活は、派手ではないものの、つつましやかに暮らすことは許され、牧歌的ともいえる日々であったと想像するかもしれませんね。

しかし、その実情は、多くの罪人にとって「死刑のほうがまだマシ」といえそうなほど過酷な世界であったのです。

この記事では、流刑者が多かった江戸時代を中心に、島流しの伝説を紹介したいと思います。

日本初の流刑者は皇女だった

日本の流刑の歴史は古く、正史では日本書紀に出てきます。第19代天皇の允恭(いんぎょう)帝の治世というから、西暦では5世紀の話です。

允恭帝には9人の皇子・皇女がいましたが、皇太子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と妹の軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)が近親相姦していることが発覚。ゆくゆくは天皇の跡継ぎとなる木梨軽皇子は不問に付されるも、軽大娘皇女は伊予(現在の愛媛県)に流されます。当時の四国は、畿内という政治の中心地からみれば、はるか僻遠の地だったのです。

時代は下って、文武天皇の大宝年間に大宝律令が制定されます。ここに、流刑に関する規定が公的に定められました。流刑先は、都からの距離に応じた近流(こんる)、中流(ちゅうる)、遠流(おんる)の三等に分けられ、罪が重いほどより遠くに流されました。流される場所は、必ずしも離島ではなく、諏訪や越前のような、本州の開拓の進んでいない地域も含まれています。

天皇も流刑に遭った

大宝律令の制定後、幾人もの人が流刑に処せられてきました。その多くは政治犯で、内乱を主導したとか、策謀を巡らしたといった咎です。中には、承久の乱を起こした後鳥羽上皇や、朝廷を風刺する詩を作ったことで流された小野篁など、皇室トップや公家クラスの人物もいれば、親鸞や日蓮のような鎌倉仏教の教祖もおり、日本史を彩る多士済々が、配流先のうら寂しい土地で涙を流したのです。

なかでも、印象的なエピソードが伝わるのは、後醍醐天皇です。元弘元(1331)年、天皇は鎌倉幕府打倒を計画しますが、側近の密告により発覚。実は、その7年前にも同様の謀議が露見した前科があり、今回ばかりは幕府もお咎めなしとするわけにはいかず、隠岐へと流されます。

鎌倉幕府に抵抗していた頃の後醍醐天皇(尾形月耕画)

絶海の孤島で後醍醐天皇は何をしていたかというと、真言密教立川流の秘法を用い、昼夜を問わず幕府の滅亡そして自身の皇位回復を願う日々を送っていました。

祈りが通じたのか、1年近く経って、脱出のチャンスが訪れます。協力者は、出雲守護の一族、富士名雅清。彼は、衛兵として後醍醐天皇と日夜顔を合わせる間柄でしたが、反幕府に傾いている世間の風を察知して、天皇を脱出させようと決心します。

寒さが身にしみる冬の明け方、雅清の手引きにより天皇は、濃霧をついて出港。「これで帰れる」と、安堵のため息をついた矢先、船は潮流に捉われて漂流。そこへ、追手の船が多数近づいてきました。

天皇は、船乗りにただの釣り船に見せかけるよう伝え、自身は船倉に積まれたイカの下に身を隠して難を逃れます。

天皇は、その日のうちに出雲に到着。そう遠くない船上山を仮御所として、幕府打倒の激を飛ばしました。反幕府勢力は勢いづき、ついに鎌倉幕府は滅びます。

先立つ承久の乱では、流罪に遭った3人の上皇・天皇は、赦免されることなく、その地で逝去しました。もし、各地に反幕府勢力がいなかったら、後醍醐天皇も隠岐から出られることはなく、そこで生涯を閉じていたことでしょう。

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