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【ジブリ】となりのトトロの都市伝説を漫画にしてみた【狭山事件】@アシタノワダイ

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信じるか信じないかはあなた次第

 

 

 【ジブリ】となりのトトロの都市伝説を漫画にしてみた【狭山事件】@アシタノワダイ

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狭山事件(さやまじけん)

1963年5月1日に埼玉県狭山市で発生した、高校1年生の少女を被害者とする強盗強姦殺人事件。「誘拐殺人事件」と呼ばれる場合もあるが、誘拐罪では起訴されていない。

 

事件の展開

1963年5月1日

埼玉県狭山市大字上赤坂の富裕な農家[注釈 12]の四女で、川越高校入間川分校別科1年生の少女(当時16歳)が、午後3時23分に目撃されたのを最後に、午後6時を過ぎても帰宅せず行方不明になった。

 

午後6時50分頃、心配した長男(当時25歳)が車で学校に行き所在を尋ねたが確認できず、午後7時30分ごろ帰宅したが少女はまだ戻っていなかった。

午後7時40分ごろ、長男が玄関のガラス戸に挟んであった白い封筒を発見した。

 

それは四女の生徒手帳が同封されていた脅迫状であり、青色のボールペンで以下のように書かれていた。

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少時 このかみにツツんでこい

子供の命がほ知かたら4月29日五月2日の夜12時に、

 

金二十万円女の人がもツて前さのヤの門のところにいろ。

 

友だちが車出いくからその人にわたせ。

 

時が一分出もをくれたら子供の命がないとおもい。―

 

刑札には名知たら小供は死。

 

もし車出いツた友だちが時かんどおりぶじにか江て気名かツたら

 

子供わ西武園の池の中に死出いるからそこ江いツてみろ。

 

もし車出いツた友だちが時かんどおりぶじにかえツて気たら

 

子供わ1時かんごに車出ぶじにとどける,

 

くりか江す 刑札にはなすな。

 

気んじょの人にもはなすな

 

  子供死出死まう。

 

もし金をとりにいツて、ちがう人がいたら

 

そのままかえてきて、こどもわころしてヤる。

 

封筒の宛名には、「少時様」という意味不明の文字を消した上で、被害者少女の父親の氏名が宛字で記されていた。脅迫文の冒頭にも「少時」と書いたのを消した跡があった。

 

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同様に「4月29日」が「五月2日」、「前の門」が「さのヤの門」に書き換えられていたが、佐野屋に門は存在しなかった。

 

午後7時50分ごろ、長男は堀兼駐在所に届け出、その後、駐在所から狭山警察署に連絡された。警察は誘拐事件と断定し、緊急捜査体制が取られた。

 

脅迫状の指定時刻「五月2日の夜12時」が5月2日午前0時とも読めるため、5月1日23時40分、次女(当時23歳)が20万円分の現金に見せかけた偽造紙幣を持ち、身代金受け渡し場所として指定された狭山市大字堀兼の佐野屋酒店の入口前で犯人を待った。

 

5月2日

午前0時半過ぎになっても誰も現れなかったため、張り込みの刑事5~6名を含む全員が引き揚げた。

 

午前3時頃、狭山市大字入間川の畑付近で数匹の犬が一斉に吠えた。2日後、この付近から被害者の遺体が発見されている。

 

23時55分頃、次女はあらためて佐野屋酒店の前に立ち、20万円分の偽造紙幣を用意して犯人を待った。付近の茶畑や民家の庭の植え込みには、張り込みの刑事が40人潜んでいた。

 

5月3日 

午前0時10分から15分頃に犯人が現場にあらわれた。

次女は犯人と約12分間にわたって会話したが、犯人は「警察に話したんべ。そこに2人いるじゃねえか」と張り込みに気づき、0時25分頃「おらぁ、帰るぞ」と逃げてしまった。

 

このとき、張り込みの刑事40人は、脅迫状の「友だちが車出いくからその人にわたせ」との文言を真に受けて車通りにしか配置を行っておらず、犯人を取り逃がしてしまった。

犯人の声について、次女は「年齢は26~27歳から33歳くらい。ごく普通の声で、どちらかといえば非常に気の弱そうな、おとなしい、静かな声であった」と証言。

また、次女の脇にいた狭山市立堀兼中学校教育振興会会長は「中年の男」と証言。

張り込んでいた警察官は「30歳以上、またはその前後」と証言している。

早朝よりの捜査によって、犯人の足跡らしきものが佐野屋の東南方向の畑で見つかった。

 

捜査官は、足跡の臭いを警察犬に追わせたが、1匹は不老川(としとらずがわ)の権現橋付近で追跡を停止した。もう1匹は、佐野屋から北側の川越方面に進んで停まった。夜明けに足跡の採取をおこなった結果、足跡は地下足袋(職人足袋)によるもので、権現橋方面に向かった後、市道をやや逆進し、さらに南側の畑に入っていた。

 

犯人の足跡の臭いが途絶えた不老川(草刈橋からI養豚場方面を望む)

その権現橋のたもとにI養豚場があった。

また、I養豚場の経営者の自宅もあった。I養豚場の経営者は被差別部落出身であり、従業員も被差別部落出身者が多かった。

 

養豚場は、地元では愚連隊の溜まり場として知られ、被差別部落民からも警戒されていた 。

 

権現橋はまた、被害者少女の通学路にもあたっていた。

 

当時の養豚場

朝、埼玉県警は記者会見を開き、本事件を公開捜査にすることを発表。

上田明埼玉県警本部長は「犯人は必ず土地の者だという確信をもった。

近いうちにも事件を解決できるかもしれない」と発言、中勲捜査本部長も「犯人は土地鑑があることは今までの捜査でハッキリしている。

 

近日中にも事件を解決したい」と発言した。

 

朝から警察官45人と地元の消防団員45人による雑木林の山狩りがおこなわれた他、捜査員165人による聞き込みが実施された。

14時25分頃、狭山市大字入間川字井戸窪の山林内にて被害者の自転車の荷掛けゴムひもが発見された。

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5月4日 

10時半、殺害された少女の遺体が発見された。

遺体は狭山市大字入間川の雑木林から麦畑に出たところの農道に埋められていた。

遺体には目隠しがしてあり、首と脚に細引き紐が巻かれ、手は手ぬぐいで後ろ手に縛られていた。

うつぶせに埋められた遺体の上には荒縄が置かれ、遺体の頭部には玉石が載せられていた。

 

19時から21時にかけて、埼玉県警に依頼された五十嵐勝爾鑑定医が、少女宅で司法解剖を行った。

 

遺体は死後2~3日経過しており、死因は首を絞めたことによる窒息死であったが、警察側の五十嵐鑑定では「加害者の上肢(手掌、前膊或いは上膊)あるいは下肢による扼殺」とされ、弁護側の上田・木村鑑定等では、被害者の首に見られる蒼白帯から、幅広い布による絞殺とされた。

 

死亡推定時刻について、確定判決では5月1日午後4時20分頃とし、弁護側では5月2日としている。

少女は生前に強姦されており、膣内から血液型B型でLe(a-b+)型の精液が検出された。

 

両足には生活反応のある(生前に受けたことを示す)傷があり、手の爪には犯人のものとみられる皮膚片が挟まっていた。

警察側鑑定では強姦とされ、弁護側鑑定では和姦とされた。

胃の中には粥状の食物が約250ml残っていた。

 

法医学ではこれは最後に食事したときから2時間、長くても3時間以内に死亡したと推定される(それ以上経過すると胃の中の食物はほとんど腸に移動してしまうため)。

 

胃の中にはジャガイモ・ナス・タマネギ・ニンジン・小豆・菜(葉)・米飯粒の半消化物のほか、トマトが残っていた。

 

後に同級生が法廷で証言したところによると、被害者が当日12時頃、昼食として摂った調理実習のカレーライス(ならびにその付け合わせ)には、トマトは入っていなかった。

後頭部には生前に負ったものと思しき裂創があり、おそらく転倒の際、角のある鈍体に衝突して生じたものと推定された。弁護側鑑定では、牛乳瓶2本分程度の出血があったとされた。

腹部や下肢に引きずられた痕があった。

処女膜には少なくとも1週間以上前にできたものとみられる亀裂があったが出血はなかった。ただし、処女膜の亀裂はスポーツ等によって生じた可能性もあり、事件前における性体験の有無は不明であった。

 

死斑の状態から、初め6時間以上にわたり仰向けにされ、その後うつぶせにされたものと推定された。

 

狭山事件 - Wikipedia

 

警察が作り上げた冤罪?

本事件については、捜査過程での問題点を指摘する声もあり、石川とその弁護団や支援団体が冤罪を主張して再審請求をおこなっているものの、袴田事件などとは異なり日本弁護士連合会が支援する再審事件(冤罪事件である可能性があるかどうか、などを基準に日弁連が再審請求を支援する事件)には含まれていない。

 

再審えん罪事件全国連絡会の加盟事件にも含まれていない[9]。

 

石川が被差別部落の出身であることから、本事件は部落差別との関係を問われ、市民権運動の時代に大きな争点となった。

 

部落解放同盟や部落解放同盟全国連合会などの部落解放運動団体や、中核派・革労協・社青同解放派などの政治党派の立場からは、この事件に関する裁判を狭山差別裁判と呼ぶ。

 

「差別裁判」と呼ぶのは、狭山弁護団の松本健男によると、事件や裁判の背景に「部落差別に起因する無学無知」があったためであるという。

 

しかし、満足な学校教育を受けなかった点については石川当人が「被差別部落出身だからというわけではなく、そんな時代でした」と発言している。

 

「差別裁判」という呼び方には被差別部落の内部にも反対する意見があった。

 

また、一審当時から「石川一雄君を守る会」(のち「石川一雄さんを守る会」)を通じて石川を支援していた日本国民救援会は冤罪説に立ちつつも批判をしている

 

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