アシタノワダイ削除動画@ホンネとタテマエ

アシタノワダイを解説・まとめ・考察する

【都井 睦雄】津山30人事件と現在の犯人の墓について漫画にしてみた(マンガで分かる)@アシタノワダイ

f:id:neko7773:20211118144747j:plain

信じるか信じないかはあなた次第

【都井 睦雄】津山30人事件と現在の犯人の墓について漫画にしてみた(マンガで分かる)@アシタノワダイ

www.youtube.com

史上最悪の殺人事件「津山三十人殺し」、犯人の遺体はどこに消えたのか?

墓はあるが、遺体は埋まっていない

※津山事件の犯人である都井睦雄以外の人名については、すべて仮名を用いています。

日本史上最悪の大量殺人とも言われる津山事件。

残された睦雄の家族たちの苦悩

事件が発生した時、睦雄の唯一の肉親である姉は貝尾にいなかった。

実は後の戸籍の調査で、第一の被害者となった祖母のいねと睦雄は血縁関係がなかったことがわかっている。睦雄の血を分けた唯一の家族は、姉のみな子だけだった。

事件発生前、祖母のいねは、睦雄が銃器を集めていることを察すると、そのことを警察へ密告し、睦雄は銃器類をすべて没収されてしまった。ただその後600円の借金をして、再び銃や弾薬を集め、犯行に踏み切った。こういう経緯もあって、睦雄は祖母を恨んでいたと思われる。

しかし、姉のみな子は常に睦雄の味方だった。睦雄には優しかった。

だから、睦雄が姉を殺害するはずはなかった。また、事件当時、みな子は妊娠しており、臨月だった。夫と津山市内に住んでいた。

事件直後、貝尾の合同葬に入れてもらえなかった睦雄と祖母いねの遺体は、姉のみな子夫婦らの手によって、戸板に寝かされ、馬車に乗せられて、睦雄の生まれ育った地である岡山県北端の倉見の集落まで運ばれた。実に20キロ以上の距離の登り坂だらけの山道だったという。

睦雄の遺体の処理については、都井家親族の中でも判断が分かれた。これだけの事件をしでかした睦雄のために墓など用意してやる必要はない、という者もいたのだ。しかし、姉のみな子の涙ながらの懇願が通り、睦雄の遺言通り、祖母の遺体の隣に埋葬されることとなった。土葬だった。

ただ、どんなにみな子が懇願しても、みな子の夫は睦雄の石塔(墓石)を置くことについては頑なに拒んだ。

「都井睦雄の墓だということは、絶対他人に知られてはいけない」

そこでみな子は仕方なく、近くを流れる倉見川の河原に転がる普通の川石を持ってきて、睦雄の墓石代わりにした。何も文字の類は彫らなかった。握り拳3、4個分の小さな川石だった。

この川石は、今も睦雄の墓石代わりとなって、祖母の墓石の隣に置かれている。

83年後の命日、都井睦雄の墓を訪ねて

はるか山深い集落、倉見。その山裾の墓地に睦雄と祖母の墓石は置かれている。

2021年の5月21日。睦雄の命日であり、事件発生の日。僕は倉見に出向き、墓参りをしてきた。

前日までの強い風雨は去り、強い日差しが山間にそそぎこんでいた。

実は今回、睦雄の墓参をするにあたり、とても心配していた。コロナ禍でいったいどれだけ睦雄のお墓が荒れているだろうか…。

もともと睦雄とその一族が眠る墓地には、倉見に残っていた睦雄の親戚のお年寄りの女性が墓地を守っていたのだが、彼女は10年ほど前に亡くなってしまった。それで墓地は荒れるかと思ったが、都井本家の傍系にあたる家のお年寄りの女性が、その後を引き継いで墓を守ってくださっていた。事件前後の倉見での事情を何度も繰り返し、聞かせていただいた恩人だった。

しかし、この女性も数年前に体調を崩して、倉見を去ってしまった。以後、睦雄一族の墓は荒れ放題となっていることになる。

睦雄の墓石は小さい。だから、少し雑草が茂ると隠れてしまうのではないかと思われた。

しかし、それは杞憂だった。どこかの誰かが、睦雄と祖母の墓石周辺の草を刈るなどしてくれたおかげで、雑草に埋もれてはいなかった。

 

僕が訪ねたとき、墓の周囲は丈の低い草で覆われてはいるものの、しっかりとお参りすることができるような状態だった。睦雄の墓石にはびっしりと苔が張り付き、一匹の蜥蜴が墓の番をするかのように、逃げることなく墓石の上に頑なに居座っていた。ひょっとすると、睦雄の生まれ変わりではなかろうか。

墓石の前にはビールやお茶などがいくつも添えられていた。睦雄と祖母の墓はなんとかお参りはできる程度には整えられていたが、2人以外の他の親族の墓は、あまり顧みられることなく、深い草に覆われて、墓石もなかなか見えない状況に陥っていた。

事件のことを忘れずに、今も多くの人が、きっと睦雄と祖母の墓を訪れているのだろう。

遺体はどこに埋められているのか?

しかし、この墓石の下には、睦雄の遺体は眠っていない。土葬されたはずなのに、いったいなぜなのだろう。

実は睦雄の墓は、最初に今より川の近くに埋葬され、その後2度ほど移動させられたという。元の墓があったあたりは、倉見川の増水や土砂崩れがあったようだ。墓を移動する時に、墓石だけしか移動できず、遺体は埋葬された状態のままだったという。このため、睦雄の遺体が埋まっている正確な位置は今もわかっていない。

僕はなんとかその場所を突き止めようとしたのだが、結局、いまだにわからないままでいる…。

倉見にあった睦雄の生家は、ほんの数年前まで残っていた。ただ、今は老朽化が進み、壊されて、跡地はさら地となっている。

 事件を直接経験した主な人たちは、大半が亡くなった。事件のきっかけの一つとなった、睦雄がかつて愛し、そして彼をふった女性も数年前に亡くなった。

コロナ禍が過ぎ去った後、はたして睦雄の墓は、そして事件の記憶はいったいどうなってしまっているのだろう。

少なくとも、僕は事件のことを忘れたくない。忘れずにいたい。

gendai.ismedia.jp