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【北朝鮮、喜び組の秘密?】あいうえおY0R0K0BI@アシタノワダイ

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美女50人の全身写真に目を通し…金正恩の「喜び組」選抜システム

金正恩夫妻とモランボン楽団(朝鮮中央テレビ)

 韓国紙・東亜日報記者で、脱北者出身のチュ・ソンハ氏が自身のYouTubeチャンネルで、北朝鮮の金正恩総書記が父の時代に出来た「喜び組」を引き継ぎ、選抜組織の名称を変えて存続させていると解説している。

 

「喜び組」の選抜組織は中央党(朝鮮労働党中央委員会)の「5課」として知られてきたが、現在では4課、あるいは6課に変わっているという。

 

 日本でもよく知られた北朝鮮の「喜び組」だが、これは北朝鮮で使われている用語ではなく、その定義も、単に金氏一家の前で歌って踊るだけの存在なのか、性上納を強いられる存在なのか明確でない。

 

 ただ、その由来や選抜システムについては概ね明らかになっている。以下はチュ氏の解説だ。

 

「喜び組」の歴史は1970年代中盤まで遡る。1976年ごろに5課が誕生した。当時、公式の後継者として選ばれて間もなかった金正日氏が、父・金日成主席の長寿のためだとの口実で、全国から女性を選抜するために作った部署だ。実際に動いていたのは、金正日氏の妹の金慶喜(キム・ギョンヒ)氏の夫に当たる張成沢(チャン・ソンテク)氏だ。

 

 5課の要員は、全国の学校を回り、美女と呼ばれる女性を1次審査を行う。続けて、郡、区域レベルで身体検査を行い2次審査を行う。ちなみに選ばれるのは女性だけではなく、男性も含まれ、彼らは金正日氏の親衛部隊となる。

 

 2次審査を受けたことがあるというチュ氏は、その様子を次のように語っている。

 

「私も学校に通っているころ、2次審査を受けたことがある。授業時間に男性数人が入ってきて、周りを見渡して『お前、立て』と言って、教室の後ろに立たせる。背格好を見定めて、午後に校長室に来るように言って出ていく」

 

「校長室に行ってみると、卒業を控えた生徒と、下の学年の生徒も来ていた。学校で美人だと言われていた女性は全員来ていた」

 

 学校での審査が終わると、郡や区域の病院で結核や感染症にかかっていないかを検査する。合格した者は道レベルで身体検査を受ける。検査項目には処女であるかどうかも含まれる。そこで選ばれた者は首都・平壌でさらに検査を受ける。この時点で50人ほどが残っている。自らの意志とは関係なく選ばれた北朝鮮最高の美女たちだ。

 

 彼女らの情報は冊子にまとめられる。1人あたり3ページを使い、最初のページには正面、側面、全身の写真数枚、2ページ目には生い立ちや家族に関する情報、3ページ目には「将軍様に忠誠を尽くす」という血書という構成だ。

 

 金正日氏は、50人分150ページの冊子に目を通し、そこから10人を選ぶ。そして、2〜3人ずつ呼んで共に食事をした後、最終的に2人を選ぶ。彼女らは金正日氏の身辺の世話はもちろん、狩りに出かけたり、水泳をしたり、カラオケに行ったりするなど、金正日氏と共に時間を過ごす。まさに大奥の奥女中のような存在だ。一方、最終審査で脱落した者は、交通安全員(交通警察)や海外派遣要員になる。党幹部たちの愛人として囲われるケースもあったようだ。

 

 金正日氏は、非常に派手な女性関係で知られているが、それがたたったのか、50歳だった1992年ごろに性関係を持てなくなった。1994年に2人が選ばれたのを最後に、女性が選ばれることはなくなった。

 

 金正日氏が亡くなった翌年の2012年、喜び組選びが復活した。金正恩氏が再稼働させたのだ。選ばれた女性たちは、性上納を強いられるだろうが、最高機密扱いだった5課の存在が知られるようになり、幹部らは自分の娘は5課に選ばせまいとするようになったようだ。

美女50人の全身写真に目を通し…金正恩の「喜び組」選抜システム(高英起) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

金正恩が手にかけた北朝鮮の「人気女優」たち

金正恩氏(朝鮮中央テレビ)

残忍な独裁者・金正恩(2)

北朝鮮の金正恩党委員長の「無慈悲な独裁者」ぶりを強烈に印象付けたのが、叔父である張成沢(チャン・ソンテク)元朝鮮労働党行政部長の処刑と、彼に連なる人々に対する大粛清だ。

北朝鮮当局は処刑を正当化するため、張成沢氏の「悪行」を暴き、彼がいかにひどい人物であったかを強調した。しかしそれは、北朝鮮権力層の腐敗ぶりを国民に知らせる結果となり、また無慈悲な粛清は金正恩氏が先代の独裁者と変わらぬ暴君であることを見せつけた。

 

張成沢氏に連座させられ、粛清された人々の数は1万人に上るという。そこには、張成沢氏の愛人だったとされる元トップ女優も含まれていた。

その女優とは、一時は北朝鮮の銀幕スターだったキム・ヘギョンのことだ。

彼女の悲惨な運命については、脱北者で平壌中枢の人事情報に精通する李潤傑(イ・ユンゴル)北朝鮮戦略情報センター代表も詳しくレポートしており、粛清情報は韓国に亡命した元駐英北朝鮮公使の太永浩(テ・ヨンホ)氏の証言と一致する。

また、張成沢氏の粛清に際しては、彼につながる外交官たちも粛清された。その中に、前駐スウェーデン大使のパク・クァンチョルがいる。彼の息子の嫁は、2007年にカンヌ映画祭でも上映された北朝鮮映画『ある女学生の日記』に主演した女優パク・ミヒャンだ。

(参考記事:北朝鮮の「清純派女優」はこうして金正恩に抹殺された

太永浩氏によれば、彼女は夫や幼い息子とともに、政治犯収容所に送られてしまったという。

さらには北朝鮮の大人気映画で、海外でもよく知られている『洪吉童(ホンギルトン)』のヒロインも粛清された。これまた「清純派女優」であるパク・チュニは、張成沢氏の甥である張ヨンチョル元駐マレーシア大使の妻だった。彼女自身は処刑を免れたものの、収容所に送られたとも、山間僻地に追放されたとも言われている。

一方、デイリーNKジャパンは昨年、「コンピュータに入力してはならない電子ファイル目録」と題された北朝鮮の内部文書を入手した。2015年5月の日付が入ったもので、韓国誌・月刊朝鮮11月号はこれを、北朝鮮の体制に不都合な映像・音楽作品を取り締まるタスクフォース「109常務(サンム)」が作成したものだと断定している。

内容は視聴が禁止された映像・音楽・ソフト類のリストで、列挙されたタイトルはざっと300以上にもなる。その中には北朝鮮の国民的女優・洪英姫(ホン・ヨンヒ)の出演作もある。

彼女の出演作がなぜ、禁止指定されたのかいまひとつわからないのだが、彼女もまた張成沢氏に連座させられてしまったのだろうか。

このように、北朝鮮では誰もが知っているような有名女優たちが、金正恩氏の時代になって次々と姿を消した。それにより生じた社会的空白こそは、金正恩政権による人権蹂躙の証拠なのだ。

金正恩が手にかけた北朝鮮の「人気女優」たち(高英起) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

夜な夜な金正日の「個人指導」に呼び出された天才美女の運命

金正日氏(左)と金正恩氏

北朝鮮の金正恩党委員長の父・金正日総書記は、ハデな女性遍歴で知られていた。彼の身近にいた女性としては、正妻の金英淑(キム・ヨンスク)、金正男の母の成恵琳(ソン・ヘリム)、金正恩の母の高ヨンヒ(コ・ヨンヒ)、晩年まで秘書として務めた金オクが知られているが、それ以外にも、絶世の美女と言われた禹仁姫(ウ・イニ)ら多数の女性と関係を持ったと言われている。

彼女らの運命は様々だ。成恵琳と禹仁姫は女優、高ヨンヒは舞踊家と、いずれも似た経歴を持っているが、末路は残酷なまでに明暗が分かれた。息子が最高指導者の地位を継承した高ヨンヒは「国母」となったが、成恵琳は金正日から見捨てられたも同然となり、ロシアで客死した。

禹仁姫に至っては口封じのため、機関銃でズタズタにされて処刑された。

 ほかにも、北朝鮮には悲惨な末路を辿った女性芸術家が少なくない。たとえば粛清された張成沢(チャン・ソンテク)元朝鮮労働党行政部長の愛人で、やはり銀幕のスターだったキム・ヘギョンもそうだ。

だが、金正日の「もうひとりの女」と言われるパク・エラのケースは、少し違っている。パク・エラは舞踊家で人民俳優の称号を持ち、画家で人民芸術家の称号を持つキム・ジョンジュンの妻だ。また、1974年に制作された映画「金姫と銀姫の運命」のモデルとも言われる。

韓国のニュースサイト、リバティ・コリア・ポスト(LKP)によれば、彼女は1947年4月11日、ソウル市の麻浦(マポ)区で生まれた。麻浦と言えば今でこそソウル市内の中心部に位置するが、当時は町はずれのスラムだった。母親は著名な芸術家だった。3歳の頃、朝鮮戦争が勃発した。母子は戦火のソウルを逃れ、軍事境界線にほど近い山奥の村に住む親類の元に身を寄せた。1953年7月に停戦協定が結ばれたころ、母子の暮らす家は北朝鮮領になり、自動的に北朝鮮の公民となった。

北朝鮮において、韓国出身者は「成分(身分)が悪い」とされ、進学や出世などにおいて様々な制約を受ける。しかし、その類まれなる才能が身分制度の壁を越えるのに役立ったのだろう。

小学校の時から舞踊で頭角を現し、成人してからは北朝鮮の代表的な革命歌劇「ピバダ」(血の海)や「花を売る乙女」でヒロインを演じた。

そして、パク・エラは運命的な出会いをする。金日成総合大学を卒業し、党中央委員会の宣伝扇動部に配置され、芸術事業の指導に当たってい後の最高指導者、金正日に見初められたのだ。ステージ上で舞う彼女を見た金正日は側近に「心臓が止まるかと思った」と言ったと伝えられている。

その後、金正日は夜な夜なパク・エラを呼び出しては食事を共にし、関係を築いていったという。やがて彼女は、金正日の特別な配慮で入党が認められた。「成分が悪い」だけの人々には考えられないほどの大出世だった。

その後も金正日は個別指導と称して、パク・エラを自らの執務室や別荘に呼び出したりしていた。慈江道(チャガンド)の江界(カンゲ)や淵豊(ヨンプン)にある招待所にも2人で入り浸っていた。

このときすでに、金正日には内縁の妻である成恵琳がいたが、幹部らの間では「金正日は成恵琳を捨てて、パク・エラと同棲するだろう」と囁かれていた。公式の場に立つことはなくても、事実上のファーストレディの座はもはや彼女のものかと思われた。ところが、それは彼女自身の痛恨のミスで水の泡と化してしまった。後輩の高ヨンヒを金正日に紹介してしまったのだ。

パク・エラより6歳も年下で優れた舞踊家だった高ヨンヒに、金正日は心を奪われてしまった。やがて金正日は様々な口実を並べ、パク・エラと距離を置くようになった。

それでも、パク・エラは1987年に人民俳優の称号を授与され、万寿台芸術団から朝鮮人民軍協奏団に移籍した。男女の関係は終わっても、金正日はパク・エラを排除しようとはせず、優れた芸術家として遇し続けたということだ。

夜な夜な金正日の「個人指導」に呼び出された天才美女の運命(高英起) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

後見人、張成沢処刑の真相 正恩「地球上から痕跡なくせ」 最期に「わずかな時間でいい。妻に会わせて…」

「われわれは既に核を持っているではないか。核実験をすれば、中国まで背を向ける」という成沢の訴えを、正恩は「われわれの生きる道は、核しかない」と一蹴したと伝えられる。

10大原則に仕掛けた“わな”

13年6月には、決定的な亀裂を生む騒動が持ち上がる。秘書室からの報告書に目を通した金正恩が、自分が自由に使える秘書室の資金が大幅に削られていることに気づいた。

「何でこんなに少ないんだ。令監(ヨンガム=金正日)のときはどうだった?」。待ってましたとばかりに担当者が答えた。「将軍さまは党39号室に資金を集め、将軍さまの革命事業に使わせました。いまは、行政部が管理し、勝手に使っています」

 張成沢は、良質の石炭を中国に輸出し巨利を生んできた軍傘下の54部の事業を行政部の管轄下に移した。しかも、収益を39号室には上げず、行政部傘下の会社にプールしていたのだ。

 激高した正恩は「いますぐ、行政部の事業を全て元に戻せ」と指示した。直属の護衛司令部(護衛総局)要員が54部の事業所の一つに接収に向かったところ、現場責任者は「1号同志の承認を取りつけてこい」と追い返そうとした。

「1号同志とは誰のことだ」と言い返すと、「張部長同志だ。あの方の指示がないとダメだ」と突っぱねたという。

 「1号」は、北朝鮮で最高指導者を指す。正恩ではない人物を「絶対者」と仰ぐ勢力が形成されていた事実を如実に示した。党員が命を賭して守るべき「党の唯一領導体系確立の10大原則」に対する明白な違反でもあった。

 10大原則は、この時期、党組織指導部によって改訂され、個別幹部の偶像化や分派活動の排除をうたった条文が付け加わった。

 党の中核を占める組織指導部の幹部らは、もともと同部の一部署にすぎなかった行政部が、最高指導者の叔父という虎の威を借り、専横する様子を苦々しくながめていた。10大原則の改訂は、張一派を追い落とすために彼らが仕掛けたわなともいえた。

 正恩の特別指示で、9月には組織指導部が主導し、秘密警察の国家安全保衛部や護衛司令部、検察から人選した「常務グルパ(チーム)」が立ち上げられ、成沢への検閲が開始された。

機関銃弾乱射で失神

 組織指導部は、張成沢の右腕とされる行政部第1副部長の李竜河(リョンハ)と副部長の張秀吉(スギル)に対する調査を3月から水面下で進め、党紀違反に問える材料をつかんでいた。11月に逮捕された2人は、拷問に耐えられずに「張成沢の罪状」を自白し、処刑された。

成沢自身も軟禁状態に置かれ、党・政・軍の幹部らとともに処刑に立ち会わされる。機関銃に乱射される光景を目の当たりにし、気を失ったと伝えられる。

 12月8日には、金正恩が主催した党政治局拡大会議に引きずり出された。以前は同僚だった組織指導部第1副部長の趙延俊(チョ・ヨンジュン)や、成沢が抜擢(ばってき)した内閣総理の朴奉珠(パク・ポンジュ)、親交のあった副総理の姜錫柱(カン・ソクチュ)らが批判に立った。

 かつての盟友らの告発が続くなか、成沢は手にしていたボールペンをノートに突き刺すように強く振り下ろし、折ってしまう。4日後には、特別軍事裁判で死刑を宣告される。

 刑は即日執行され、数百発の機関銃弾が浴びせられた。無残に砕かれた遺体は火炎放射器でさらに焼かれた。「地球上から痕跡をなくせ」という正恩の指示に基づく処置といわれる。

 死を前に、成沢は「ほんのわずかな時間でいいから、妻に会わせてくれ」と懇願したという。妻で正恩の叔母の金敬姫(ギョンヒ)は、組織担当党書記の地位にあったとみられる。彼女が本当に実権を握っていたなら、熱愛の末に結ばれた夫の命だけは救おうとしただろう。

 しかし、3代世襲を歩み始めた北朝鮮に、2人の権力者が並び立つことは許されなかった。父が後見を託した叔父を痕跡なきまで葬るという無慈悲な処分は、若い最高指導者にとって避けようもない選択だったのかもしれない。=敬称略 

【秘録金正日(73)】後見人、張成沢処刑の真相 正恩「地球上から痕跡なくせ」 最期に「わずかな時間でいい。妻に会わせて…」(3/5ページ) - 産経ニュース

 

「喜び組」の定年は25才 口にするのも…な酷い罰ゲームも

『喜び組』――その名前を耳にしたことのある人も多いだろう。1984年12月に、金日成国家主席に次ぐナンバー2だった金正日総書記(当時は書記)に「喜びを与え」「休息を確保する」目的で結成された組織。そもそもは、芸術好きの金正日の歓心を買うため、党幹部たちが北朝鮮では最高レベルとされた『万寿台芸術団』の踊り子などを接待係として、パーティーなどに動員したのが始まりだった。大阪生まれの在日朝鮮人で、踊り子からファーストレディーになった金正恩の母・高英姫もこれに所属していた。

『喜び組』は3つの部隊に分かれるとされる。

 歌や踊りを習得し、パーティーを華やかに演出する「歌踊組」、マッサージで慰労する「幸福組」、そして性的サービスを担当する「満足組」だ。北朝鮮の内情に詳しいジャーナリストの惠谷治さんは語る。

「メンバーは18才から25才までの選りすぐりの美女。朝鮮労働党の組織指導部第5課という人事を担当する部署の職員が、全国の学校を回って、美人学生を物色するのです。

 毎年、北朝鮮全土から選ばれる女子の数は約300人ともいわれます。それから厳格な健康診断を経て、最終的に50人ほどが選ばれます。『喜び組』に入る絶対条件は処女であること。そして金正日好みの細身ではあるけれど、丸顔でふっくらした顔立ちでなければいけません」(惠谷さん)

 最終的に『喜び組』に選ばれると「護衛司令部」という、金総書記の警護部に配属され、少尉として遇されることになる。給与なども将校レベルが保障され、一般の労働者の2倍から3倍といわれるが、それだけではない。

「このほか特別配給があり、祝日などには食料や布施など、一般市民には手に入りにくい品が両親など家族に届けられます。ただし将校だから高待遇というよりは、口止め料と考えるのが正しいと思います。実際喜び組に選ばれた段階で、『活動内容を口外しない』という誓約書を書かされるといいます」(惠谷さん)

 それも当然。活動実態は、口外がはばかれる内容だからだ。その実態について、1995年に北朝鮮から韓国に亡命した元喜び組の申英姫さんが、著書『私は金正日の「踊り子」だった』で詳しく暴露している。

 申英姫さんは1961年生まれ。北朝鮮の平城芸術専門学校を卒業し、1981年、前述した『万寿台芸術団』へ入団。そしてまもなく金正日総書記も出席するパーティーへの出席を指示される。同書によれば、会場には当時の北朝鮮の最高幹部約20人が顔を揃えていた。1984年になって、喜び組が正式に組織化されると、申英姫さんはその一員に選ばれ、「曲芸組」と呼ばれたグループの踊りについてこう触れている。

《舞台に上がった曲芸組の衣装は、ブラジャーで胸をすれすれに隠し、下半身は何もはかないで、赤のショールを巻いただけだった。そんな身なりで刺激的な動きをすると、一部の酔っ払った幹部らは舞台に上がり、曲芸組の赤いショールをこっそりめくってみたり、指で陰部を突ついてみたりした》

 週に1、2回開かれる酒宴での接待。こんな罰ゲームを強制されることもあった。

 

《金正日が酩酊してしまうまで、パーティーは終わらない。ゲームも行われる。たとえば、カード遊びをやって負けると、男女問わず一枚ずつ服を脱がされたりする》

 酔いが回ると、罰ゲームはさらにエスカレートしていく。

《もし男が負ければバリカンでザクザクと髪の毛を刈り、女が負けたら陰毛を刈る、ということさえあった》

 惠谷さんが言う。

「『喜び組』が参加するパーティーの実態を知る者は北朝鮮の高官だけ。北朝鮮の一般市民は、喜び組という存在さえ知らないはずです」

 当然、喜び組に選ばれる若い女性たちも、申英姫さんが告白したような性の奴隷にされるとは夢にも思っていない。ひたすら国家のため、党のため、偉大な指導者のため、と純粋に信じた結果がこれなのだ。

「『喜び組』は25才が定年となります。高英姫は金正日の目にとまって、子供まで産みましたが、他の女性たちも卒業後は防衛司令部の将校など、身分の高い幹部と結婚することになります」(惠谷さん)

『喜び組』は金正恩政権でも健在だといわれている。妻の李雪主が所属していたと見られている『銀河水管弦楽団』は、2013年8月、韓国のメディアが、ポルノ映像制作などの性的スキャンダルが発覚し、メンバーはじめ十数人が処刑されたと報じた。ファーストレディーとなった李雪主の醜聞を抹消するための処刑という可能性も指摘された。

 そんなふうに粛清とともにあった金王朝だが、身内に手をかけたのは今回が初めてだ。これについて『金正日秘録』の著書がある龍谷大学教授・李相哲さんはこう見ている。

「それだけ金正恩の立場が危ういということなんです。金正日は何があっても自分の地位を脅かす人なんていないという自信があったけれど、まだ若い指導者の金正恩にはそこまでの権力がない。金正日の息子だからその座にいるという現実が、彼を疑心暗鬼にさせているんだと思います。(マレーシアで殺害された長男の)金正男自身は政治に興味がなかったのですが、例えば金正男が生きている限り、金正恩に敵対する勢力が金正男をまつりあげる可能性はゼロではありませんから」

 国際事情にくわしいジャーナリストのなかでは、金正日が最期まで重用した金正恩の異母姉にあたる金雪松が拘束され、まもなく暗殺されるのではないかと噂になっている。同様に、チェコ大使を務める金正日の異母弟・金平一の命も狙われているとの情報も飛び交っている。

※女性セブン2017年3月16日号

「喜び組」の定年は25才 口にするのも…な酷い罰ゲームも|NEWSポストセブン

 

娘が北朝鮮の美女軍団「喜び組」の候補者に!半数以上が落選する衝撃の理由:じっくり聞いタロウ

売れっ子から懐かしのスターまで、芸能人が驚きの近況を報告する番組「じっくり聞いタロウ~スター近況(秘)報告」(毎週木曜深夜0時放送)。11月4日(木)の放送では北朝鮮に40年以上在住した脱北者が、「喜び組」の実態から命懸けの脱北劇までを大暴露!

木下公勝さんは、1960年、15歳の時に家族で石川県から北朝鮮に移住。北朝鮮は1959~1984年に豊富な農作物や豪華な食事に舌鼓を打つ農民の写真などを使って「地上の楽園」と国の豊かさをアピールし、在日朝鮮人とその日本家族の集団移住・定住を推進した。貧しい暮らしから脱したい一心で父は最後まで渋っていた母を説得。子どもたちは帰国船に乗る両親に付いていくしかなかったという。そこで見た光景とは!?

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1800人が乗った船が北朝鮮に到着すると、埠頭には約1万5000人の人々がびっしりと集まり迎えてくれた......のだが、木下さんは「今の世の中にこんなとこがあるんじゃろか」と衝撃を受ける。

前列にいた子供たちのスニーカーは破れて親指がはみ出していたが、前の方にいたのはまだ服装がマシな方。6月に蒸し暑い中、人民服を来た人々は「汗臭いわ泥臭いわ、この世で味わったことのないような体験」だった。宣伝されていた風景とはまったく違っていたのだ。

着いたばかりの帰国者に食事が振る舞われたが、そこでもカルチャーショックを受ける。ニシンは腐った臭いがし、箸で割ると中は変色して真っ赤。米も玄米のように黄色だった。木下さん一家の日本での暮らしも貧しかったが、一日三度の食事で白米を食べていた。しかし、北朝鮮では最高のもてなしの食事が、それだったのだ。

その後、家族は招待所で4日間過ごし、中朝国境地帯へ送られ「今すぐ日本に帰りたい」という願いは40年以上叶えられることはなかった。そして40年以上過ごす中、北朝鮮の女性と結婚。子どもと孫にも恵まれたが、およそ15年前の2006年、61歳の時に1人で脱北した。

なぜ木下さんは家族を置いて脱北したのか? 実は、木下さんの娘が中学校を卒業する前、金正日氏や側近に奉仕するための美女軍団「喜び組」の面接に呼び出されたという。

木下さんによると、北朝鮮中から美女を探す専門の労働党員がいて14~15歳の候補生をピックアップ。候補者は肉体労働免除などの特別待遇を受ける中、才色兼備の女性が喜び組に選抜されるという。

候補者の基準は、色白でスラっとした長身で、脚が真っすぐであること。中でも最優先となるのは処女であることだった。検査により「将軍様に捧げる花束を余計な奴が先にいただくなんてけしからん」と半数以上が落選。性体験がなくても激しい運動で処女膜を損傷することもあるのだが、喜び組に選ばれなかった女性は村に帰ると悪い評判が立ってしまうという。

そして厳正な審査で喜び組に入った女性に任される仕事とは? 木下さんによると、「快楽組(満足組)」は体で奉仕し、「幸福組」は風呂で体を洗ったり、飲み物を給仕したりするなど身の回りの世話をするのだという。ちなみに、木下さんの娘は父が日本出身という理由で、幸か不幸か喜び組候補から落選した。

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木下さんと一緒に移住した弟と妹は2人とも脱北するが、妹は保衛部に捕まって処刑された。木下さんは妻や子供を残し1人で脱北。普通なら残った家族は強制収容所行きだが、妻の兄たちが金日成のボディガートをするなど実家がエリート一家であることから収容所に送られることもなく無事でいるのだとか。

61歳の時に脱北を決意した木下さんは、国境警備隊の幹部にワイロを渡し、事前に決めた日時に国境へ。雪で覆われた川のほとりで幹部が人払いをするのを待ち協力者の兵士と国境の川を歩いて渡ったそう。40年ぶりに日本に帰ってきた木下さんには、今も1年に2~3回中国製のケータイで家族から電話が来るのだと語った。

この他、北朝鮮で新型コロナ感染者ゼロのからくりや、経済制裁下で行われる闇ビジネスを大暴露!

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