アシタノワダイ削除動画@ホンネとタテマエ

アシタノワダイを解説・まとめ・考察する

【花魁】高級遊郭で働く女の1日を漫画にしてみた(マンガで分かる)@アシタノワダイ

信じるか信じないかはあなた次第

 

 

www.youtube.com

 

吉原遊廓

吉原遊廓(よしわらゆうかく)は、江戸幕府によって公認された遊廓である。始めは江戸日本橋近く(現在の日本橋人形町)にあり、明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ。

元々は大御所・徳川家康の終焉の地、駿府(現在の静岡市葵区)城下にあった二丁町遊廓から一部が移されたのが始まり。

 

歴史

徳川家康が天正18年8月1日(1590年8月30日)に江戸に入府し、その後、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開くと、江戸は俄かに活気付き、鎌倉以来の関東の武士の都となった。

家康は東海地方から多数の家臣団を率いて江戸に入ったため、江戸の都市機能の整備は急ピッチで進められた。そのために関東一円から人足を集めたこと、また、戦乱の時代が終わって職にあぶれた浪人が仕事を求めて江戸に集まったことから、江戸の人口の男女比は圧倒的に男性が多かったと考えられる(江戸初期の記録は確かなものはないが、江戸中期において人口の3分の2が男性という記録がある)。

そのような時代背景の中で、江戸市中に遊女屋が点在して営業を始めるようになった。 江戸幕府は江戸城の大普請を進める一方で、武家屋敷の整備など周辺の都市機能を全国を支配する都市として高める必要があった。

そのために、庶民は移転などを強制されることが多くあり、なかでも遊女屋などはたびたび移転を求められた。

そのあまりの多さに困った遊女屋は、遊廓の設置を陳情し始めた。当初、幕府は相手にもしなかったが、数度の陳情の後、

慶長17年(1612年)、元誓願寺前で遊女屋を営む庄司甚右衛門(元は駿府の娼家の主人)を代表として、陳情した際に、

客を一晩のみ泊めて、連泊を許さない。

偽られて売られてきた娘は、調査して親元に返す。

犯罪者などは届け出る。

という3つの条件で陳情した結果、受理された。

受理されたものの、豊臣氏の処理に追われていた当時の幕府は遊廓どころではなく、陳情から5年後の元和3年(1617年)に、甚右衛門を惣名主として江戸初の遊廓、「葭原」の設置を許可した。

その際、幕府は甚右衛門の陳情の際に申し出た条件に加え、江戸市中には一切遊女屋を置かないこと、また遊女の市中への派遣もしないこと、遊女屋の建物や遊女の着るものは華美でないものとすることを申し渡した。

しかし、寛永の頃までは、遊女が評定所に出向いてお茶を出す係を務めていた。

結局、遊廓を公許にすることでそこから冥加金(上納金)を受け取れ、市中の遊女屋をまとめて管理する治安上の利点、風紀の取り締まりなどを求める幕府と、市場の独占を求める一部の遊女屋の利害が一致した形で、吉原遊廓は始まった。

ただし、その後の吉原遊廓の歴史は、江戸市中で幕府の許可なく営業する違法な遊女屋(それらが集まったところを岡場所と呼んだ)との競争を繰り返した歴史でもある。

このとき幕府が甚右衛門らに提供した土地は、日本橋葺屋町続きの2丁(約220メートル)四方の区画で、海岸に近くヨシが茂り、当時の江戸全体からすれば僻地であった。

「吉原」の名はここから来ている。

吉原移転後、跡地には難波町、住吉町、高砂町、新和泉町が出来た。

現在の日本橋人形町2、3丁目と日本橋富沢町に跨がるあたりである。

寛永17年(1640年)、幕府は遊廓に対して夜間の営業を禁止した。このことで市中に風呂屋者(湯女)が多く現れるようになり、その勢いは吉原内にも風呂屋が進出するほどだった。

新吉原

江戸末期の新吉原の見取り図。右のくねった道は日本堤から下る「衣紋坂」とそれに続く「五十間」で、遊廓への唯一の公式通路。

「大門」をくぐった先が吉原遊廓で、高い塀と「おはぐろどぶ」に囲まれた、隔絶された楽園であった。廓内は、通りごとにいくつかのエリアに分かれていた。

道路のつくりはほぼこのとおりに現存していて、地図で容易に確認することができる(ただし、実際にはもっと上下に広く左右に狭い)。

江戸市中は拡大しつづけ、大名の江戸屋敷も吉原に隣接するようになっていた。

そのような中で、明暦2年(1656年)10月に幕府は吉原の移転を命じる。

候補地は浅草寺裏の日本堤か、本所であった。吉原側はこのままの営業を嘆願したが聞き入れられず、結局、浅草寺裏の日本堤への移転に同意した。

この際に北町奉行・石谷貞清は以下の便宜を図っている。

吉原の営業できる土地を5割り増し(3丁四方)

夜の営業を許可

風呂屋者(私娼)を抱える風呂屋(風俗営業をする銭湯で、遊廓の競合)を200軒取り潰し

周辺の火事・祭への対応を免除

15,000両の賦与

この内容から風呂屋の盛況も移転の理由だったことが窺える。

幕府は同年9月に風呂屋者を置くことを禁止している(それ以前との記録もあり)。

もっとも、周辺火事への対応免除は、逆に吉原で火事が発生した場合に周りから応援が得られず、吉原が全焼する場合が多かったという皮肉な結果をもたらした。

折りしも翌明暦3年(1657年)正月には明暦の大火が起こり、江戸の都市構造は大きく変化する時期でもあった。

大火のために移転は予定よりも少し遅れたが、同年6月には大火で焼け出されて仮小屋で営業していた遊女屋はすべて移転した。

移転前の場所を元吉原、移転後の場所を新吉原と呼ぶ。新吉原には、京町1,2丁目、江戸町1,2丁目、仲之町、揚屋町、角町があった(京町以外は全てちょうと読む)。 寛文8年(1668年)、江戸市中の私娼窟取り締まりにより娼家主51人、遊女512人が検挙されて新吉原に移された。

これらの遊女に伏見の墨染遊廓や堺の乳守遊廓の出身が多かったため、移転先として廓内に新しく設けられた区画は「伏見町新道」「堺町新道」と呼ばれた。またこの時に入った遊女達の格を「散茶(さんちゃ)」「埋茶(うめちゃ、梅茶とも)」と定め、遊廓での格付けに大きな影響を与えた。

新吉原を開設したのは尾張国知多郡の須佐村の人だったという論文が『知多半島郷土史往来4号』(はんだ郷土史研究会刊)で発表されている。著者は作家の西まさる。西論文によると、吉原遊廓の揚屋は総数約20軒で、そのうち13軒以上が知多郡須佐村の出身であることが、地元寺院の過去帳や寄進物記録で明白になったという。その背後に千賀志摩守がいたはずと発表している。

『吉原はこうしてつくられた』西まさる著(新葉館出版)によれば、明暦大火後の8月に浅草田圃に出来上がった三町四方の新吉原遊廓であるが、その埋め立て、造成、建設の指揮をしたのは知多の陰陽師で、実際に作業にあたったのは非人頭の車善七が率いる3千人の非人とされた人たちという。

また、完成した新吉原の町を俯瞰すると、5つの稲荷神社に囲まれた陰陽道の陰陽の法則に基づいていることが解るという。

また、遊廓街へ入る五十間道の曲がり方、見返りの柳、さらには花魁道中の花魁の独特の歩行方も陰陽道に沿ったものという。

新吉原での火災は延宝4年から慶応2年の191年間に22回あった。安政江戸地震による火事では、廓内の死者は千二十余人、遊女のみ、530余人を数える。失火があったら火消も繰り出すが、大門内に入らず鎮火を待った。焼け残りがあるとこれを焼き払ったのは、仮小屋での営業が許されないからである。仮宅による営業はうまみもあり、火事を密かに願った者もいた。

徳川吉宗は享保6年11月全国の人口調査を命じたが、新吉原の人数の記録がある。惣〔ママ〕人数高8,171人、15歳以上男2,375人 同以下463人、15歳以上女4,003人、以下女330人、右のうち家主182人、店借り620人、遊女2,105人、禿941人、召使2,163人。この中で合計があわないのもあるが、文献のままである。

遊女

多くの遊女は年季奉公という形で働かされていた。

一定の年限を働くか、遊女を購った金額を返却できれば解放され、新吉原成立から天保年間までは、年季を明ける率は常に8割を超えた。

ただし遊女の大部分は性病などの感染症に罹患しており、また栄養失調、不衛生な集団生活などで健康状態も悪く、商品価値のない遊女や死期の迫った者は、葬儀等の手間を省くために店側が年季を放棄する、実質的な解雇や放逐によって年季明けしたにすぎない、と見る指摘もある。(永井義男『図説吉原入門』学研) 一部の遊女は生涯を遊廓で終えた。

年を重ね、遊女としての仕事が難しくなった者は「やり手」「飯炊き」「縫い子」等に再雇用された。

一説には「心中」「枕荒らし(客の財布を盗む事)」「起請文(お気に入りの客に宛てた手紙)乱発」「足抜け(脱走)」「廓内での密通」「阿片喫引」など吉原の掟を破った者の遺骸は、素裸にされ、荒菰(あらごも)に包まれ、浄閑寺に投げ込まれた。人間として葬ると後に祟るので、犬や猫なみに扱って畜生道に落とすという迷信によったとものとされているが、逆に畜生道に落とさないための方法ともされる[疑問点 – ノート]。

なお、浄閑寺のホームページによると、浄閑寺が投げ込み寺と呼ばれるようになったのは安政2年10月2日(1855年11月11日))の安政江戸地震で600人余の遊女が死亡した際にこの寺に投げ込んで葬ったことによる。 遊女にはランクがあり、美貌と機知を兼ね備え、男性の人気を集めることが出来る女性であれば、遊女の中でも高いランクに登ることが出来た。

遊女の最高のランクは宝暦年間まで太夫と呼ばれ、以下「局」「端」とされていたが、江戸の湯屋を吉原に強制移転したさいに「散茶」が構成され、その後は花魁とよばれた。

花魁は振袖新造と呼ばれる若い花魁候補や禿とよばれる子供を従えており、気に入らない男性は、相手にしてもらえなかった。

そのような中で、粋に振舞うことが男性のステータスと考えられていた。そしてまた、客から金品を貢がせるのが遊女のテクニックではあったが、その理由として遊女の生活用品や光熱にかかる費用、また妹分の禿や新造への養育費、また自身の装身具、化粧品などはすべて遊女の自己負担であり、高級遊女になるほど負担額が増えるという店のシステムにも起因すると考えられる。

しかし、現代で言う「ボッタクリ」を店が行うことは良しとはされず、ぼったくり行為を行った店の主人が処刑された例もある。

江戸時代の多くの時代を通じて、ランクの高い見世(遊女屋、妓家)の遊女と遊ぶためには、待合茶屋(吉原では「引手茶屋」と呼ばれる)に入り、そこに遊女を呼んでもらい宴席を設け、その後、茶屋男の案内で見世へ登楼する必要があった。茶屋には席料、料理屋には料理代、見世には揚げ代(遊女が相手をする代金)が入る仕組みであった。

吉原遊廓では、ひとりの遊女と馴染みとなると、他の遊女へは登楼してはならないという掟があった。

ほかの遊女と登楼すると、その遊女の周辺から馴染みの遊女のもとに知らせが行き、裏切った客は、馴染みの遊女の振袖新造たちに、次の朝に出てくるところを捕まえられて、髷を切り落とされるなど、ひどい目に遭う男もいたとされるが、宝暦以降はこのような掟も廃れた。