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(漫画)風見しんごの娘をひいたトラックの正体と加害者が報道されないエグい理由を漫画にしてみた(マンガで分かる)

信じるか信じないかはあなた次第

 

 

(漫画)風見しんごの娘をひいたトラックの正体と加害者が報道されないエグい理由を漫画にしてみた(マンガで分かる)

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風見しんごが初告白した「娘の死」からの10年

長女を交通事故で亡くした風見しんごさんとその妻が初めて口を開いた

 

覚えているだろうか?

2007年1月17日。この日、一つのニュースが、日本中に衝撃を与えた。タレントの風見しんごさんの長女・えみるちゃんが小学校への登校中、自宅から100メートルの場所で交通事故に遭い、帰らぬ人に。享年10。愛する娘の短すぎた生涯だった。あの悲劇の事故から10年。長い沈黙を破り、風見しんごの妻が愛する娘を奪われた夫婦のその後について、初めて口を開いた。

国民的人気者・風見しんごと妻が築いた幸せな家庭

風見しんごさんの妻・尚子さん、現在50歳。短大で福祉を学んだあと、ミス日本に輝き、芸能界入り。タレント・モデルとして活動中だった1990年、テレビ番組を通じて風見さんと知り合い、交際へと発展した。

当時、風見しんごと言えば、デビュー曲『僕笑っちゃいます』などのヒット曲を連発し、俳優もこなすマルチタレントとして活躍。そんな国民的人気者と尚子さんは1994年に結婚。2年後に長女を授かった。つけた名前は「えみる」。それは、風見さんの「笑顔が満ちる子になってほしい」という願いが込められた名前だった。

「とにかく明るくて、物怖じしないというか、すぐ友達になるタイプで、社交的」(尚子さん)

その7年後に出産した次女には、“大地を踏みしめ、しっかりと根を張ってほしい”という願いを込め『ふみね』と名付けた。

「すごくシャイで、社交的なお姉ちゃんの後ろに隠れて、ちょっと顔出してるタイプ!けっこう逆でしたね、えみるとは」(尚子さん)

長女えみるちゃん(写真右)、次女ふみねちゃんと風見さん夫婦

2人の娘はすくすくと成長。2人の成長記録をビデオで撮影するのが夫婦の何よりの楽しみだった。ある日の風見家のホームビデオ…

「ハハ~、チチは~?」(えみるちゃん)

「チチはお仕事よ。もうすぐで帰ってくるから、いい子にして待ってましょうね」(尚子さん)

「うん! 早くチチ、帰ってこないかな~」(ふみねちゃん)

子供たちは「パパ・ママ」ではなく、「チチ・ハハ」と呼んだ。風見しんごのアイデアだ。

「バタバタはしてましたけど、そのバタバタが楽しいというか幸せな時間でしたね」(尚子さん)

まさに絵に書いたような幸せな家庭。そんな一家を“あの悲劇”が襲う。

長女が突然の交通事故死

その日は、いつもと変わらぬ朝だった。いつものように、尚子さんは長女えみるちゃんが大好きな「ツナサンド」をつくり、学校へ送り出し。その幸せな日常のひとコマはわずか数分後に崩れ去った。

娘を送り出し、ホッとしている尚子さんの下に来た1本の知らせ。えみるちゃんが交通事故に遭ったという。慌てて、眠る夫を叩き起こし、夫婦は事故現場へと走った。
  

尚子さんと2人の娘。幸せな家庭をあまりにも不憫な事故が襲った

「どこかケガをして、泣いていたりするのかなという気持ちで行ったんですけれど、行ったらどこにもいなくて……」(尚子さん)

「(事故を起こした車は)まだエンジンがかかったままで不自然な形で停まっていました。車の下をのぞいたら後輪の間から足が見えて…。履いていたスニーカーが僕がえみるに買ってやったスニーカーだったので……あ、ここにいたのかと思って……」(風見さん)

病院に運ばれた時、すでにえみるちゃんの心臓は停止寸前だった。

「頑張って!」

「えみる!」

「お願い!頑張って!」

夫婦は何度も何度も、返事のない娘に呼びかけた。

「事故にあったのが8時8分だったんですけど、最後、息を引き取ったのが9時33分だから、約1時間半。すごく頑張ってくれた。頑張ってくれました。あんな小さな体でね…」(風見さん)

享年10。あまりにも突然すぎる、愛する娘との別れ。

妻・尚子さんには、拭い去れない「後悔」がある。

愛娘との突然の別れ・・・尚子さんは最後にかけた言葉を「後悔」している。『結婚したら人生劇変!〇〇の妻たち』(TBSテレビ系)次回は8月21日(月)夜7時から放送です

「どうして最後ぐらい、『もう頑張らなくてもいいよ』って言ってあげられなかったんだろう」(尚子さん)

尚子さんは、えみるちゃんが幼い頃から、えみるちゃんに「頑張れ!」と言ってきた。

「それこそハイハイするのも頑張れ!立っちするのも頑張れ!頑張ってお友達いっぱい作ってね!勉強も頑張って!明日のテスト頑張るのよ!運動会頑張ってね!って、ずっと頑張れ頑張れって言い続けてしまったので」(尚子さん)

あの事故の日も、尚子さんは必死に「頑張れ」と声をかけ続けた。その母の呼びかけに応えるかのように、えみるちゃんは心肺停止となったあと、一瞬だけ、息を吹き返したという。

 

「最後ぐらい、頑張らなくてもいいよ!って言ってあげられたら良かったかなって。後悔してます……」(尚子さん)

深い悲しみと後悔に打ちひしがれる日々。しかし、苦しんでいるのは夫婦だけではなかった。そのことを尚子さんは意外な形で知ることになった。

自分を「えみる」だと言い出した「ふみね」ちゃん

ある日、次女のふみねちゃんを散歩に連れて行くと、通りすがりの女性から「お名前は?」と話しかけられた。するとふみねちゃんは…

「えみる」(ふみねちゃん)

「違うでしょ ふみねでしょ」(尚子さん)

「ううん わたし えみる!」

「だって、えみるがいれば大人は泣かなくなるでしょ?だから私がえみるになるの」(ふみねちゃん)

大好きな姉を突然失った妹。幼心に両親を気遣っていた

「凄く可哀想なことをしたなと思います。まだ3歳のふみねにとって、えみるは憧れの存在だった。その凄く大きな存在がいなくなったのに、私はいっぱいいっぱいで、大きいものを一人で抱え込ませてしまった。」(尚子さん)

夫婦はようやく、守るべき大切なものに気がついた。「ごめんな、ふみね。全然、気付いてやれなかった」。風見さんが謝ると、ふみねちゃんはその小さな手を伸ばし、「いい子、いい子。チチはいい子。だから泣かないで」と風見さんの頭を撫でたという。

「自分より小さい子にするように…いい子いい子、いい子いい子ってやってくれてね。今思うとね、あんな小さい子供に随分助けてもらいましたよ」(風見さん)

そんな娘をみた尚子さんは、ある決意を固める。

「私 いつか天国へ行った時、えみるに会えた時“頑張ったね”って言ってほしい。だからね、私、ふみねのためにやれることは全部やってあげたい。全部を頑張るって決めたの。それがこれからの私の生き方」(尚子さん)

「とにかくふみねを一生懸命育てて、ふみねはお姉ちゃんの分まで頑張るんじゃなくて、えみるの分は私が頑張る。ふみねはとにかく元気で、頑張らなくていいよって言い続ける」(尚子さん)

吉報はふみねちゃん(写真中央)が望んでいたことでもあった

こうして、ふみねちゃんから前を向くキッカケをもらった妻、尚子さん。そこへ、新たな希望の光が差し込んだ。

長女の死からちょうど1年後、なんと尚子さんのお腹に新たな命が宿った。それは、ふみねちゃんがずっと望んでいたことでもあった。奇しくも、その妊娠がわかったのが、えみるちゃんの1回目の命日の頃。尚子さんは「きっと…えみるが連れて来てくれたんだ」と思い、凄く嬉しかったという。

「ちょっと次女に迷惑をかけた分、ああ、これでちょっと次女にある意味恩返しじゃないですけど…できるかなぁなんて。」(風見さん)

それはあの日以来、家族がはじめて心から喜べる出来事だった。

 ⇩ 続き

風見しんごが初告白した「娘の死」からの10年 | 家庭 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース

 

通学路事故で長女失った風見しんごさん“ルール破る大人が命奪う”

千葉・八街市で起きた児童5人死傷の交通事故。そのニュースを見て「ことばを失った」と語るのは14年前、長女を通学路の事故で亡くしたタレント・俳優の風見しんごさんです。
「交通ルールを守る子どもたちが、ルールを破った大人に命を奪われるのは理不尽すぎる」。車に乗る大人たちの意識を変えることで子どもの命を守ろうと、交通ルールの順守をうったえる活動に14年間をささげてきた風見さん。今の思いを聞きました。
(「通学路の安全」取材班/首都圏局ディレクター 有賀菜央)

子ども犠牲になる理不尽 何度繰り返すのか

Q.八街の事故のニュースをどんな気持ちでご覧になっていましたか?

どうしても交通事故はドライバーが鉄の箱で守られていて、いわゆる交通弱者である子どもや高齢者が犠牲になることが多いです。もちろん車同士の事故ではそれで命が失われることもありますが、対歩行者、特に朝の通学時間帯だとやっぱり一番は子どもたちが犠牲になってしまう。

僕の子どものころは野球をしている子どもたちがボールを取り損ねて、それを追っかけて道路に飛び出す、そういうシーンがテレビで描かれていた時代でした。でも今の子どもたちは車社会の中で育ってきていて意外とルールを守っているんです。もちろん朝元気にはしゃいでる子もいます。子どもらしく、友達とおはようって言いながら、ちょっとふざけ合って学校に向かう。そのせいで命の危険にさらされるなんてあっていいはずがありません。
大人が作ったルールを守っている子どもが、ルールを破った大人のせいで命を落とさなきゃいけないのが本当に理不尽な出来事だと思います。八街の事故もそうですが特に子どもが犠牲になるたびに毎回、ことばを失います。

娘奪った通学路の事故 地獄だった

風見さんは2007年、通学路の交通事故で長女のえみるさん(当時10歳)を亡くしました。
えみるさんは青信号で横断歩道を渡っていたところを右折してきたトラックにはねられました。自宅から100メートルほどの現場で、風見さんは事故に遭った娘を目の当たりにしました。

“交通事故って、こんな地獄なのか”と。妻と現場に駆けつけ、娘をトラックの下から引きずり出しました。もちろん血も流れていて、テレビで見る戦場のようでした。そこに居合わせた全ての人が地獄の中に立たされている、そんな空気感だったのを覚えています。
娘が事故に遭うまでは、申し訳ないことですがここまでのことだと知らなかった。連日起きている交通事故の一つ一つがこんなに悲惨だと知って、改めて恐怖を感じました。

なぜ動けないのか…後悔と歯がゆさ

えみるさんは、朝は車が通れないはずのスクールゾーンから出てきたトラックにはねられました。当時のことを振り返って、風見さんはもっとできたことがあったはずだと悔やんでいるといいます。

事故があった14年前はスクールゾーンという認識がまだまだ緩かった。多くの子どもの命が犠牲になって、今ではスクールゾーンに工夫を凝らして朝は車が入れないガードを出すようになっているところも増えました。でも当時はそういうものがなくて、娘はスクールゾーンから出てきたトラックにはねられたんです。それを思うと、もう…。言葉が出ないですね。なぜもうちょっと早く動けなかったのかなと。
娘が事故に遭った現場は、保護者の皆さんが歩車分離の信号に変えてもらいたいとずっと声を上げてきて、今では信号が変わっています。でも変わるまでに9年かかりました。
もちろん予算や対策を行う順番もあると思いますが、PTAの皆さん、保護者の皆さんが声を上げた場所には赴いて状況を把握して、とりあえずここは早急に手を打とうというのがどうしてできないのかなと、八街のニュースなんかみると本当に歯がゆいですね。

八街の事故現場も以前から危険性が指摘されていた

そしてもうひとつ、今でも娘に申し訳ないって思っていることがあります。
参観日や運動会などの行事以外で、娘と一緒に学校に行きながら“ここに気をつけろよ”って言ってやったことが何回あっただろうと。本当に数えるほどだったなと。
「お父さん仕事忙しいんだよ、今日もテレビ局行かないといけないし」。今から思うと時間はいっぱいあったはずです。僕はすごく反省しましたけど娘は帰ってこない。だから今の親御さんにはぜひそういう時間を作ってほしいと思います。

僕はこの14年という時をかけて、自分の中に沸き上がる感情をどうやって抑えるか、どうやって対処するかをどうにか学習してきました。日々の生活においては“立ち直ったね”って周囲の皆さんには見られるかもしれませんが、悲しみや、恐怖や、後悔。とにかく全ての気持ちはどんなに時間がたっても薄れることはないということを今、改めて感じています。

車に乗る人が意識変えて 訴え続けた14年

被害を繰り返してほしくないと、風見さんはこの14年間積極的に交通安全の啓発活動に取り組んできました。子どもの命を奪うのは、大人。その大人の意識を変えることこそが、子どもの安全を守る一番の対策なのだと言います。

海外に行くと、車のレーンと歩行者が歩く道の間に街路樹帯が1本通っていて、車と歩行者を切り離す対策が進んでいると感じます。日本は、国土も狭いのですべての通学路でそうした対策を取ることは難しい。そうなると変えられるのは「車」と「車に乗る人」です。自動車メーカーでは歩行者を守るシステムが研究されて自動ブレーキの開発もどんどん進んでいます。車は変わってきています。あとはハンドルを握る僕らの意識です。

今は極力ハンドルを握らないようにしていますが、どうしても月に2回ほど車に乗る機会があります。仕事の時間に遅れそうになったり渋滞がひどかったりすると、やはりちょっとイライラして“こっちに抜けて早く行こう”と思ってしまいます。
そんなときは助手席に置いてある娘の写真に目を落として「5分遅れてもいい、取り返しがつかないことが起こるよりは遅れて怒られたほうがいい」って思うようにしています。

風見さんが車に置いている写真 えみるさん(右)と妹

大事なお子さんがいる方は、ぜひ車の中にお子さんの一番すてきな笑顔の写真を置いてください。僕にとってはもう帰ってこない子どもですが、でもそこに愛する人の笑顔があるって意識すると多少なりとも優しい運転になる気がします。

僕がデビューしたころは一杯飲んでから運転して帰るお父さんがいたようなレベルでした。シートベルトに対する意識も高くありませんでした。それから今までの間に事故でたくさんの方が犠牲になって、令和になった今の意識は昭和の時代とは大きく変わっています。
ただ、変わることにはいつも犠牲が伴います。だから少しでも、少しでも短い時間で変わってほしい。子どもの犠牲が1人も出ないうちに変えられたら幸せだなとつくづく願っています。

通学路事故で長女失った風見しんごさん“ルール破る大人が命奪う” | NHK

 

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