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【鳴門の大渦・血の池地獄】絶対に泳いではいけない場所を漫画にしてみた(マンガで分かる)@アシタノワダイ

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信じるか信じないかはあなた次第

 

 

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鳴門海峡の渦潮

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血の池地獄

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まさに血の色のようにも見える、酸化鉄を含んだ真っ赤な熱粘の池、それが「血の池地獄」。「万葉集」や「豊後国風土記」にも「赤湯泉」「赤池」などの記述がみられる「地獄」としては一番古いもの。

広さ1300平方メートル、深さ30m以上(泥の為に正確な深さは不明)、泉温78℃で、地下の高圧、高温化で生じた酸化鉄のほか、酸化マグネシウムなどを含んだ熱泥が噴出し、それが堆積して真っ赤な池となっている。昔から、沈殿したこの赤い熱泥を利用し、皮膚病薬(血ノ池軟膏)を製造したり、布や家の柱などの染色をしていたという。

血の池地獄は、1927年(昭和2年)に、高さ220メートルにまで達する大爆発を起こしているほか、明治から昭和初期にかけ、何度も爆発を起こしており、周囲にも被害をもたらした。現在は、池の撹拌を行い、爆発を防止している。血の池の源泉からひいた掛け流しの血の池足湯があり、皮膚の薬にもなる成分を含んだお湯をその場で体感できる。平成21年に国の名勝に指定されている。

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吸い込まれそう! 地獄の入口のようなダム穴の美映像(アメリカ・ベリエッサ湖)

米カリフォルニア州ナパバレーにある、ベリエッサ湖のモンティセロダム。そこは、地元では人気の観光スポットだ。なかでも見どころは、直径約22メートルにおよぶ巨大な「水抜き穴」。ダムの水が増えて満杯になると、水があふれないように穴から放出する。ちょうど、バスタブの側面にある水抜き穴のような仕掛けだ。垂直な穴を水は流れ落ち、600メートルほど下にあるプタ川に注ぐ。

 

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2017年の1~2月、カリフォルニアは記録的な大雨に見舞われた。これにより、モンティセロダムにも水が押し寄せ、貯水量の限界に達してしまった。その際に記録されたのが上の動画。ドローンを使って撮影した。

見ていると吸い込まれそうなダム穴は、まるで「地獄の入口」のよう。だがそれは、人々を守るための救世主ともいえる。ある意味、美しささえ感じられる光景だ。

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なぜ女生徒36人は突然、海で溺れ死んだのか…「橋北中学校水難事故」の真実(三重県中河原海岸)

頭巾にもんぺ姿の亡霊が現れ…

昭和30年(1955年)7月28日、三重県津市でのこと。橋北中学校の生徒たちが安濃川河口近くの海(通称中河原海岸)で水泳訓練をしていたところ、女生徒たちが一斉に溺れ始めた。救助活動が行われたが、多くの女生徒が犠牲になった。

この水難事故から生き残った一人が言うには、「あの日、溺れ、海中でもがきながら、もんぺを履き、頭巾をぐっしょりと濡らした女性たちがたくさんおり、こっちへおいでと招いていた光景を見た」という。

実はこの事件のちょうど10年前、昭和20年7月28日、津市は五度目の空襲を受け、市街地のほとんどが壊滅した。その時、逃げ場を失った人々が津警察署の地下室に逃げ込んだが、この人々も蒸し焼きにされて死んでしまった。

そして犠牲になった人々は安濃川の河口付近に葬られた。そのため、あの海に現れた亡霊は空襲の犠牲になった人々だったのではないかと言われている。

松谷みよ子著『現代民話考5 死の知らせ・あの世へ行った話』に掲載されたこの話は、「橋北中学校水難事件」や「中河原海岸水難事故」と呼ばれる水難事故に纏わる怪談としてよく知られている。この他にも女生徒たちは頭巾にもんぺ姿の亡霊に足を掴まれ、溺れさせられた、という話もよく聞かれる。

水木しげる氏は『決定版 日本妖怪大全 妖怪・あの世・神様』等の著作においてこの亡霊たちを「集団亡霊」と名付け、頭巾を被った亡霊たちが海で女生徒を襲う様子を描いている。

ではこの事件は実際にはどのようなものだったのだろう。この亡霊事件の真相を追求した後藤宏行著『死の海』を参考に、それを追ってみたい。

生還した女生徒の「証言」

昭和30年当時、プール設備を備えた学校は少なく、河川や海で水泳の授業を行うことが普通だった。

7月18日から始まった水泳訓練は、同月28日に最終日を迎える。そのためこの日はテストが行われる予定であり、401名の生徒がテスト前の体慣らしとして男女に分かれて海に入っていた。天気は快晴、気温は30度を超え、波も穏やかで、絶好の海水浴日和であったという。

しかしそれからわずか数分後、突然約100名の女生徒が一斉に溺れ出した。叫び声に気付いた男子生徒や教師陣、地元の漁師などが救助に当たったが、最終的に36名が命を奪われた。

この事件で生き残った生徒たちの証言によれば、溺れた理由は大波にさらわれたというものと、海底の流れに引きずり込まれた、という証言があった。またメディアや国会はこの事故の発生は教師たちの管理責任であるとし、教師たちの責任が追及された。

つまり事故当時においては、亡霊の存在は囁かれてはいなかった。この海難事故の背景に死した女たちが現れるのは、約1年後、昭和31年(1956年)7月29日の『伊勢新聞』の記事であったという。

この記事では事故から生き残った女生徒の一人が海の底からたくさんの女性たちが自分を引っ張りに来た、という証言を載せ、また事故から10年前の同月同日、空襲によって津市中心部が壊滅し、その無縁仏が中河原海岸に埋められた、という話も記されている。

発端は週刊誌の記事だった

そして事故から8年後、『女性自身』に生還者の一人である梅川弘子氏の手記と題した記事が載せられた。この話の中で頭にぐっしょりと濡れた防災頭巾を被り、もんぺをはいた女性たちが波間から近付いてきたという証言が載せられた。

また先述した津市の警察署の地下室に逃れた人々が空襲で死んだ、という話もここで登場する。そしてこの死体の一部は中河原海岸に埋められたとも記されている。

津市における空襲は実際に昭和20年(1945年)7月28日から29日かけて発生しており、多くの人々がその犠牲となった。しかし彼らの遺体が海岸に埋められたという事実はなく、後に大規模な工事が中河原海岸で行われた際にも遺骨は発見されなかったという。

そして重要なのは、先述した『女性自身』の記事以来、現在に至るまで中河原海岸事故の亡霊の目撃者とされてきた梅川弘子氏(梅川は旧姓、現在は中西弘子氏。以下中西氏と表記)は、一度も亡霊を見たと証言していないということである。

中西氏はその後何度も書籍やテレビ等でこの事件について語っているが、その都度亡霊を見た証言者、もしくは見ていない証言者という真逆の二つの立場で登場している。

そして『死の海』にて後藤氏が改めて彼女に話を聞いたところ、本人は亡霊を目撃したこと話したことはなく、『女性自身』に手記として掲載された記事も、実際には記者が中西氏の話を元に書いたもので、彼女の証言とは食い違うのだという。

つまり中河原海岸の亡霊たちは、メディアによって作り出された怪異だった。

「亡霊説」が説得力を持ったワケ

怪談というものは人々の興味をひくものだ。同じように水中において死者が人の命を奪おうとする怪談は多い。

海水浴に来ていた友人が崖から海に飛び込み、そのまま亡くなったため、飛び込む瞬間の写真を現像するとその友人に向かって海から無数の白い腕が伸びていたという怪談では、その腕の正体はその海で命を絶った人々であったと語られる。

また、学校の水泳を舞台にしたものでは、学校のプールの第四コースを一人で泳いでいるとそのプールで死んだ生徒の霊に足を引っ張られるというものもある。これらの怪談は広く全国に流布している。

事故や事件の背景に何らかの不可思議な存在や現象があるとされた方が多くの人の興味の対象となるのは事実だ。特にこの事故は数多の犠牲を出した空襲のちょうど10年後の同日に発生した、という偶然も重なり、亡霊説が説得力を持ってしまった。

また、水木しげる氏や松谷みよ子氏といった著名な人物に取り上げられたり、多くのメディアに怪談として紹介されたことで、現在でも数多くの人の知るところとなっている。

しかし、実際の事故とそれが元になって生まれた怪談は、別個に考えるべきだと私は思う。この海難事故で女生徒たちの命を奪ったのは戦争の亡霊などではなく、誰の場合にでも起こりうる自然現象だった、ということを忘れてはならない。

戦争の犠牲になった人々が亡霊と化し、戦争を生き延びた子どもたちを新たな犠牲とした、などという悲しい出来事はなかったのだ。

【参考文献】
松谷みよ子編著『現代民話考5 死の知らせ・あの世へ行った話』(2003年、ちくま文庫)
水木しげる著『決定版 日本妖怪大全 妖怪・あの世・神様』(2014年、講談社文庫)
後藤宏行著『死の海 「中河原海岸水難事故」の真相と漂泊の亡霊たち』(2019年、洋泉社※現在、宝島社)

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